第8話
キス
それからひそかにあの人が留学の手続きをしてくれた。ピアノの先生の先生で、パリに住んでいるピアニストのところに行くことが決まった。音楽院も受けることになった。だからピアノの練習以外にソルフェージュに通うことになったりして、忙しかった。莉里も受験生だったので、お互いあまり一緒にいる時間がなかった。朝も一緒に行かないようにした。
莉里が志望校に受かってから、俺のことは話すように言われていた。もう全てが決まっていた。俺は莉里と別れてパリに行く。費用は全額負担してくれるという。そしてあの人も莉里のお母さんもほっとしていたし、誰より俺がこの家から出ることができて、一息つける気がした。
「律君」と莉里の母親から珍しく声をかけられた。
「はい?」
「ごめんなさいね。優しくしてあげられなくて」
「…いえ。住まわせてくれて、ご飯も用意してくれて、ありがとうございます」と頭を下げた。
「それに莉里に…優しくしてくれて」
何を言いたいのか分からずに困ってしまう。俺の母親があの人と不倫したのだから、気持ちは分るし、そんなに酷いことをされたわけでもない。
曖昧に頷いていると、意を決したように言った。
「莉里のことは忘れてくれる?」
俺が好きだったのが、分かっていたのだろうか。
「…はい」
「ピアノ、頑張って」とだけ言われて、お守りを渡された。
春が近づいていた。莉里は無事に第一志望に受かった。その日は珍しく四人でレストランに行った。中華料理だった。
「合格おめでとう」と両親から祝われる。
「ありがとう」と莉里も笑顔を見せた。
「おめでとう」と俺も言う。
「りっちゃん、ありがとう。はー、ようやく遊べる」と莉里は言う。
俺は曖昧に笑った。向こうの都合で五月の連休後にフランスに行くことが決まっていた。でもお祝いの日になにもそんな話をしなくていい、と俺は思って黙っていた。
そんな感じで穏やかに食事会は済んだ。
「りっちゃんも同じ高校に来る?」と帰り道に莉里が聞く。
「…行けないかな。そんなに勉強…得意じゃないし」
「あ、りっちゃんだったら、音楽高校かな」
「…多分」と言葉を濁して笑った。
莉里はそんな言葉を真に受けて、目をキラキラさせていた。本当に幸せで、そして疑うことを知らない莉里が歯がゆかった。
「大丈夫だよ。だって、今ピアノだけじゃなくて、なんか音楽の勉強もしてるんでしょ?」
「うん。必要だから…」
「すごい。頑張ってね」
なんだか莉里がそう言ってくれるから、どこに行っても頑張れそうな気がする。
「うん。ありがとう。莉里ちゃんも…高校生活楽しんで」
「え?」
鈍感な莉里が少し首を傾げた。
「部活…とか」
「あ、うん。そうだね。部活…うん。中学では入ってないけど、高校では入ろうかな」
そう言う言葉を聞いて、莉里が一人で大丈夫か少し不安にはなったけれど、きっと大丈夫だろうと思った。
莉里の母親が言うように、忘れようと思った。
新学期が始まって、莉里は少し早めに家を出る。
「りっちゃん、駅まで一緒に行こう」と言われた。
「あ、うん」
なんだか断るのも変で、一緒に出る。いつも一緒に行くのが辛くて、早めに出て音楽室でピアノを弾いていた。だからか、莉里の出る時間と重なる。
「やったー」と無邪気に喜んでいた。
あとひと月だからか、莉里の両親は何も言わなかった。
駅に行くまで
「友達できるかなぁ」とか「勉強、難しいかなぁ」とか心配ごとを話す。それを聞きながら、莉里ならきっとなんでも上手くいく、と言ってあげたかった。
「りっちゃんは新学期だけど、ドキドキしないの?」
「別に…同じ学校だし」
「そっか。同じ学校からの子は二人だけで…。同じクラスになるか分からないし」と莉里は不安そうに言う。
「クラブでもしたら友達できると思うよ」
「あ、そうか。そうね」
「彼氏もできるかもね」
一瞬、莉里が立ち止まった。そんなこと考えてもいないような顔で、こっちを見る。
「…彼氏?」
「うん。高校生だし」
「え? あ、え?」と莉里が動揺していた。
俺はその動揺の意味が分からなくて、首を傾げる。莉里なら恋人なんて簡単に作れると思う。そう思ってから、胸の底がじわっと熱くなるのを感じた。
「いや…。それはないかな。うん」と否定して、納得していた。
それ以上、何も言えなくなるくらい胸が痛くなった。
「…もう。りっちゃんはモテるからそんなこと言うんだよ。バレンタインのお返ししたの?」
「…してない。だって、数が多いし」
「ちゃんとしなきゃダメじゃない。今年は受験でばたばたしてたから…私、用意できなかったけど」
「それでよかったよ。渡すだけでも大変だったんだから」
「そんなこと言ってたら、嫌われちゃうよ」
「いいよ。別に面倒臭いだけだし」
なぜか莉里がふくれっ面になる。
「…莉里ちゃんにも返すの渡してないし」
「え? いいよ」
「それは用意してるけど、受験だったから」
「え? りっちゃん、くれるの?」
「うん」
途端に明るい顔になる。そしてまた抱き着こうとするから、距離を取った。
「外だし」と言って、拒否した。
「家だといいの?」
「いや、どっちもよくない。もう駅だから、またね」と言って、俺は走って駅の向こう側まで行った。
その日、莉里は帰ってくるなり、俺の部屋のドアをノックする。
「りっちゃん、お返し取りに来たよ」
「あ、待ってて」
女子校生が何を喜ぶか分からなくて、ネットで検索して香水にした。ぬいぐるみでも何でも喜びそうだけれど、やっぱり身に着けてもらいたくて。それでいて、目に見えない方がいいと思った。引き出しから綺麗に包装された香水を取り出す。
「これ。いつもありがとう」と言って、渡した。
「え? クッキーとかじゃないの?」とびっくりした顔をする。
「うん。高校生だし」
「あ、お祝いも兼ねてるの?」
「そう」
(後、さよならも)
莉里はその場で包みを開けて、驚いていた。
「こんなに…高価なもの」
「いいよ。別にお金は使うことないし」
アールグレイの匂いの香水で莉里に似合うと思った。
「使っていい?」
頷くとすぐに首元につけた。香りがふわっと立ち上がる。
「いい匂い」
「うん。似合ってる」
「りっちゃん、ありがとう」と抱き着かれた。
もう胸のところに顔がうずまることはないけれど、莉里の首に顔が来る。莉里の匂いと香水の香りが混ざる。くらくらしそうになる。必死に耐えた。
「りっちゃん、背中少し大きくなったね。身長も伸びたし…」
「うん。まぁね。離れてくれる?」
「あ、うん」
莉里は気まずそうに体を離した。
「ちょっとやることあるから」と言って、莉里を部屋の外に出した。
「ごめんね。またね」
「うん」と言って、部屋の中に戻ってベッドに体を投げ出した。
――限界だ。
莉里は何にも思わずに好意を表現してくれるけど、それは全部、家族としての愛だ。
(後、一月の辛抱)
ストイックにピアノを練習した。何も考えたくない。
準備ができて、一週間後にフランスへ行く。莉里にお別れをしようと決めて、学校から帰ってきた莉里の部屋に向かう。今日は家族が誰もいない。ドアをノックすると莉里が明るい声で返事する。
「りっちゃん、気分転換にコンビニいってアイスでも買わない?」と莉里は早速誘ってくれた。
「うん。ありがとう。一週間後にフランスに行くんだ」
「え? フランス? 旅行?」
「留学」
「留学? え? 一年くらい?」
「ううん。音楽院を目指すことになったから」
「え? 音楽院って…何年」
「うーん。受かってからだけど…何年かなぁ…」
「え? え? なに? どういうこと?」
「今年は語学学校とピアノの先生のところに通いながらだから、一年後に音楽院に入れたらいいなぁって」
「一年後に音楽院? それで何年? …もう帰ってこないの?」
「うん。帰って来ないように頑張る」
それでもう莉里は黙ってしまった。大きく開かれた目が潤み始めた。
「…ど、うし…」
耐えかねた涙が零れる。
「ピアノ、頑張ろうと思って」
莉里の涙を見ていたら、本当に綺麗だと思った。別れを悲しんでくれるなんて、世界中に一人だけだと。ピンクの唇が細かく震えている。
「そ…そっ」
何とか言葉を探している唇に唇を当てた。柔らかくて、温かい。
「じゃあね」と言って、離れた。
キスした。叶わない初恋相手に、唇を当てるだけのキス。
お別れの挨拶だったのに、ずっと忘れられないキスだった。
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