第10話
屋根裏部屋のアトリエ
「すごくいい体してるね」
そんなことを言うから思わず警戒したが、遠慮なく上から下まで見られた。
「何ですか?」
「ごめん。私、パリに絵を描きに来てて」
「はぁ…」
「良かったらモデルになってくれない? お金払うから」
「そんな暇…」
「だって泳ぐ暇あるんでしょ?」
それが桃花さんとの出会いだった。
日常的にフランス人の先生と喋っていたから、日本語でしゃべれる気安さというのもあった。語学学校に通ってはいたけど、日本人は女の子が多いし、クラスにたった一人いる男性は料理の勉強が本来の目的で、日々忙しそうだった。桃花さんのことは変な人だとは思ったけれど、年も離れているし、気晴らしに行くことにした。
桃花さんの部屋は古いアパルトマンの最上階までエレベーターで上がり、さらに階段で上がるという、いわゆる女中部屋だった。
小さい女中部屋だったが、窓があり、小ざっぱりとしていた。
「脱いでくれる?」と聞かれたから、素直に脱いだら驚かれた。
「まさか本当に脱いでくれるなんて」
「え? 冗談だったの?」
「希望。ただの希望」と言って鉛筆で描き始める。
何度もポーズを取らさせられる。
「疲れたんだけど」と文句を言うと慌てて謝ってくれた。
「ごめん。休憩しよう。お茶入れるから」と言うので、服を着た。
服を着て、絵を覗き込むと、絵に詳しくなくても分かるくらい下手な絵だった。手が異様に長くて、体のバランスが取れていないのに、顔だけはまじめに描こうとしている。その割に変な顔だった。
「…上手く描けたと思うんだけど、なんか違和感あるよねぇ」と桃花さんが言う。
「え? プロじゃないの?」
「そんなこと言ってないでしょ? でもちゃんと絵の学校には通ってるから」と頬を膨らませる。
確かに勝手にプロだと思い込んでいたのはこっちが悪い。
「なんで、こんな絵でわざわざフランスまで来たの?」と思わず言ってしまった。
「別にいいじゃない。へたくそだからこそ習いに来たんじゃない」
俺は理解しがたかった。お金をかけて習うというのだからある程度は日本でやっていて、さらに上達を目指すために留学するのだと思っていたからだ。ピアノを弾きたいからとフランス留学する人はいない。
「…よっぽどのお金持ち? とか」
桃花さんは笑って頷いた。
「そうね。今の段階ではお金持ちかもね?」
「今の段階?」
「慰謝料たっぷりもらって、旦那と別れたの」
「え?」
その慰謝料でフランス留学したらしい。語学を学ぶ気はなかったから、絵の学校を選んだという。
「…そう…ですか」と俺は呆れた。
「いいじゃん
「だから…モデルにお金払うとか…」
「そうよ。こんなお金持ってたって仕方ないでしょう?」
「いや、それなら就職に役立つ資格を取るとか」
「はー。まぁ…律君は若いもんね」と桃花さんは肩を竦めた。
「桃花さんだって若いですよ?」
「三十歳よ。今更、資格取ったってねぇ。まぁ、何かの仕事かはするだろうけど。あの人からもらったお金、全部、無駄なことに使いたかったの」
「いくらですか?」
「五百万。本当は競馬とかにつぎ込もうかと思ったんだけど、いろいろ辛すぎて、なんか日常から離れたかったの」
そう言われると、何も言うことができない。
「…絵の学校、飛行機、保険。どれも高いけど…まだ残ってる。私がご飯、ごちそうしようか?」
俺はピアノの先生のところに住んでいて、ご飯も用意されていることを言うと感心したようにため息をついた。
「ピアニスト目指して来たのかぁ。じゃあ…大変だね」
「何が…ですか?」
「そりゃ、練習とか」
「まぁ…」
「どうしてモデルしてくれようとしたの?」
「なんとなく…淋しそうだったから」と本当のことを言った。
なんというか、不躾な態度だったが、断ったら悲しむかな、と思った。
「律君、そういうことわかっちゃうんだ」
「なんとなく…ですけど。でなきゃ、声なんかかけないでしょ」
「そうよね。うんと若い子に声なんかかけない。もっとミドルクラスのおじさまに声かけるわよね」と笑う。
「だから…ナンパ目的じゃないと思って」
「そうかなぁ。分かんないよ? あ、でもまだ未成年かぁ。捕まっちゃう」と楽しそうだった。
「…何言ってるんですか」
「え? その気になってくれる?」
突然、服を脱ぎだすから驚いて、後ろに下がった。
「律君の裸見たんだから、こっちも見せないとね」
桃花さんはまるでお風呂に入るようにさっと全部脱いでいった。
「ねぇ。抱いてもいいよ?」
「は?」
夫と離婚してフランスに来て、あまりにもねじがぶっ飛んでしまったのだろうか。
「避妊具なくても大丈夫」
ますますやばい人だったんだろうか、と思ったが、桃花さんは真剣な顔をして言った。
「子宮…ないの」
「え?」
「別れた理由。病気で子宮取ったから」とほとんど薄くなっている傷跡を指差した。
「それで?」
「だって子ども産めないじゃん。夫の子ども…産んであげられないじゃん」
全ての疑問がこの言葉で収まった。
「夫も、私も愛してたから、別れたの」
愛してたから、別れたという言葉は胸に響いた。
「律君も…淋しい? だから私のところに来たんでしょ?」
「そう…ですね」
「淋しくて堪らなくなったら、いつでも来て。おばさんが待ってるから」
桃花さんは薄く笑うと、服をさっさと着た。窓の光が差し込んでやたら明るい部屋だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます