第58話

追憶の音



 雨が降り続ける。私は棚上に置かれている律の写真を眺めた。いつまでも若い姿の律がそこにいる。私は年齢の割にほぼ白髪だ。


 フランス語の翻訳に疲れた時は律がくれた音を聴く。私は印象派の展覧会の書類を翻訳している。日本の美術館で今度、大きな展覧会が行われる準備だった。個人的に私も楽しみだ。




 大学院を卒業してもフランスには行かなかった。何とか翻訳の仕事をしたり、西洋美術について学んだりした。でも律に会いには行った。


 律が国際コンクールで二位だった時も応援に行った。


「次は一位になるから」と私に言っていた。


「うん。絶対よ」


「莉里、フランスで仕事したらいいのに」と律に言われた。


「一位獲るまでって言ってたのに」と私は笑う。


「じゃあ、来年。来年、絶対…」とキスをする。


 その時、来年…一位になろうが、そうじゃなかろうが、私は引っ越しを決めた。翻訳の仕事はどこでもできるし、律もピアニストとして忙しい毎日を送っていたからだ。二人でだったら、何とか暮らせるだろうと思った。もう父も母も何も言わなかったし、母は父と別居を始めていた。



 目の前の資料にゴッホの「花咲くアーモンドの木の枝」が載っている。この絵が日本に来る。いろんなことが頭に浮かんだ。




 フランスの引っ越し先は律の部屋だった。三年ぶりに律の部屋に戻った時、この絵のポスターを飾ったのを思い出す。


「お祝いの絵だから」と言って、リビングの壁に飾る。


「お祝い?」


「ゴッホの甥っ子の誕生のお祝いで」と言うと、ちょっと律が悲しそうな顔をする。


「赤ちゃん…。ごめんね」と私に言う。


「もう、私の方が気が利かなくてごめん。でもあの日、律が声をかけてくれたのもアーモンドの木の下だから」


「そっか」と笑って抱きしめてくれた。


 はしゃいだ私たちの毎日が始まった。



 夏は地中海沿岸にバカンスに出かけた。律はモナコとカンヌで公演をしていたので、私も付いて行った。モナコは小さな国で、ニースからバスで一時間もかからない。きらきら宝石が散らばったような海を律の隣で黙って眺めている。私に窓際を譲ってくれる。


「律も海見たくない? 綺麗よ」


「いいよ。この席だと海も莉里も一緒に見れるから」


 恥ずかしいことをさらっと言うから、返す言葉が無くなる。私が目を丸くしていると、キスをされた。


 フランスでは人前でキスをする恋人たちが普通にいるけれど、やっぱり恥ずかしくなって、私は窓の方に体を向けて、眩しいほどの海の輝きを目にやきつけた。



 律の公演は夜だったので、モナコのホテルを主催者が取ってくれた。ホールは広くて、オペラもできるような大掛かりなところだった。


「莉里、今日はさすがに本番後にできないから」とリハーサルに連れて来てくれて、客席に私だけ一人座って、いつもの悲愴、第二楽章を弾いてくれる。


 モナコ王室の人も来るかもしれないと言われているので、勝手なことはできないと言われたらしい。


「律が言うこと聞くの珍しいね」と私は笑った。


「音楽家だからね。パトロンになってもらえるとありがたい」と笑う。


「どうして?」


「来年も、莉里とモナコに来れる」


 来年も再来年も…律とずっと一緒にいられるのが嬉しくて、私はただそれだけが嬉しくて、別にモナコじゃなくても、どこでもよかった。



 夜の公演は大成功で、アンコールの拍手が鳴りやまない。結局、舞台の上に戻ってきた律は悲愴の第二楽章を弾いた。


 もうこの頃には彼はアンコール曲は必ずこの曲を弾くと思う人も多かったようだ。だからアンコールをねだられるということは、観客たちもこの曲を待っているという暗黙の了解だったのだ。



 モナコとニースの間にあるエズというところにも行ったし、奮発してそこで一泊だけした。小さな村で、かわいらしいお店が細い道に並んでいる。そういうところはモン

サンミッシェルに似ている。


「ねぇ、律、モンサンミッシェルに行ったの覚えてる?」


「もちろん。覚えてる。でも…あそこはやっぱり神聖な場所っていう感じで、ここは南フランスらしい明るさと伸びやかさがあるよね」


「そうね。海の色が違うような気がする」


 崖に村があるので、階段が多くて大変だ。でも振り返って見る海は最高だった。


「モンサンミッシェルでお願いしたから、今こうして居られるのかも」と律が言った。


「お願いしたの?」


「うん。命が短くなってもいいから…莉里と一緒にいたいって」


「え? そんな」


「そうだよ。そんな馬鹿なこと考えて。今は一緒にいれるから、長生きしたい」と笑う。


「もう」と言って、私は律に体をぶつけた。


 少しもびくともしないどころか抱きしめられてしまう。


 ホテルの部屋から海が眺められる。海しか見えない。そんな景色を眺めていると、まるでふたりきりしか存在しないような気持ちになる。この世にたった二人だけ――。


「もし、この世に二人だけだったら、律はピアノ弾かない?」


「弾くよ。莉里のために」


「え?」


「莉里は二人だけだったら何するの?」


「二人だけだったら…食べきれない果物食べて暮らす」


「裸で?」


「え?」


「だって誰が服作ってくれるの?」


 そういうところは変に現実的だな、と律を思った。


「そんなこと言ったら、ピアノだって作れないでしょ?」と言い返すと「ピアノはあるんだよ」と変なこと言う。


「じゃあ、律も裸でピアノ弾くの?」


「そうだね。裸でピアノ弾くね」


「寒くなったらどうするの?」


「南の方に移動する」


「ピアノ動かすの?」


「そう。二人でピアノ押して」


 なんだか想像すると平和だけど、おかしくなってくる。


「変なの」


「変じゃないよ。それ以外は何もいらない」


 そう言われて、キスされた。律の匂い。もうすっかり馴染んでいる。


「私も…律がいてくれたら…」と言う言葉も口で塞がれた。


 律の甘い声に体をもたせかける。

 海が少し遠のいた。


 そんな幸せな時間を七年過ごした。二人で。毎日、お互いの笑顔を見て、ご飯を食べたり、一緒に寝たりした。些細な事が本当に輝いていた日々だった。



「律…」と言って、私は写真を触る。



 オランダの公演に行って、その夜、事故に合った律は帰らぬ人になった。その後の記憶はあまりはっきりしていない。アルビンに助けてもらって、オランダまで行った。もうどうしていいのか分からなくて、日本に連絡すると父が来てくれた。


 もう五年も前のことだ。


 今でも私は律が近くにいる気がして仕方がない。近くにいないだけで、どこかにいるような気がしてしまう。死ぬことも怖くなくなった。死んだら律に会えるような気がして。何度か自分で、と思ったこともあった。その度に、なぜか律のピアノの音が頭に流れてくる。

 それで今は何とか仕事をして、一人で暮らしている。でも一人じゃない。

 私は今でも律と一緒にいる気がする。



「この曲は大好きな人のために…」と律が公演後にインタビューされる度に言ってくれた。


 私のためだけに残してくれた音。

 その音を聴きながら、私は名画が日本で展覧会に並ぶお手伝いをする。絵にもそれぞれの情景や想いが込められているように。私は律との想い出の中で生きている。

 幸せだった時間も辛かった時もずっと一緒の音だった。

 

 送ってくれたピアノの音を流す。

 時々、本当に時々…私は律の音を聴きながら、涙を零すことがある。

 恋しくて仕方がない。

 会いたくて切なくなる。

 

 私の中で生きている律を思い出しながら、ピアノの音を聴く。雨が窓を伝って流れる。

 優しい音が私を慰めてくれるように、響く。

 夜が近づいているのか、窓の外は青く淡く霞んでいた。


 ペンを置いて、私はずっと律の音、追憶のノオトに耳を傾ける。


                        ~追憶ノート 終わり~

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追憶ノート かにりよ @caniliyo

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