第57話

アーモンドの木


「桜じゃない? すごい」


「桜じゃないらしいよ」


「だって桜の幹みたいだし、桜の花に似てるよ」


「でも違うんだって」


「えー、こんなそっくりな花あるかなぁ」


 パリの中華街に向かう道すがら綺麗な桜のような花を咲かせている並木を眺める。前の二人も日本人なのだろう。その木を眺めていろいろ言っている。パリで桜のような花を見れるなんて思いもしなかったのだろう。


 私も立ちどまってその木を仰ぎ見る。空と木を切り取ったら日本の空のように見える。

 イタリアから私はやっぱりパリに来たくなって、チケットを取って来た。イタリア語を聴いていたら、フランス語を聞きたくなった。三日ほど滞在する予定だ。


 水色と薄ピンクのコントラストが儚くて綺麗だ。


「あ、ゴッホのアーモンドの木」


 水色の背景にピンク色のアーモンドの木の花が描かれている絵があった。私はスマホで画像検索をして「花咲くアーモンドの木の枝」と並べる。

 まるでそれは答え合わせのようにそっくりだった。


「あ…」


 アーモンドの木かもしれない、と私は思った。


 フランスには一時期画家が集まった時代があった。スペイン出身のピカソも、日本人のフジタ、オランダ人のゴッホもフランスにいた。オランダ人のゴッホは母国ではないフランス語で画商で働いていた弟と手紙を書いている。


「絵…。絵画の…何かそういうお手伝いができたらいいな」と私は思った。


 ピカソの絵も分からないけれど、私はいつも時間があれば美術館にいたのだから。将来的になにかフランス語を使える専門分野を探していたけれど、今、見つけた。

 水色の空と画面の絵はまるで私の希望のように思えた。手を伸ばして、スマホと空を並べてみる。


「いつか…フランス語でそんな仕事ができたら…」とようやく私は自分の道を見つけた気がする。




 シャッター音がすぐそばで聞こえた。


「莉里…」


 振り返ると律が立っている。驚く私にいつもの柔らかい笑顔を浮かべる。


「律…」


 名前を呼ばれて律は気まずそうに笑うと、則子さんに教えてもらった、と肩を竦める。私は則子さんに少しパリに寄ってから帰ると言っていた。だから今朝、ランチの誘いを受けたのだけれど、胃の調子が良くなくて、ブラッスリーのランチは無理だから「フォーを食べに行く」と断ったのだった。


「今度こそ一緒にフォーを食べに行こうって約束してたのに」と律は少し責めるような口調で言う。


「あ…。そうだった…」と返事をしながらいつの間にか、以前のように話している心地よさに気が付く。


 いつか一緒に中華街に行って、フォーを食べる約束をしていた。


「演奏、とっても良かった」


「うん。頑張った」


 まるで子供みたいに言うから、笑おうとして、涙が零れた。


「私も…大学院…受かったの。日本で勉強して…」


「…うん。俺ももっと頑張る。今度は一位になれるように」


「じゃあ…。フォーの約束は…お互いの目標が叶ってからにしない?」


 律が淋しそうに笑う。


「そう? 俺はお腹空いてるけど」


 私の好きなお店を紹介しようと、道の向こう側を指さした。


「…美味しいお店はねぇ…数字の…」と言うと、律は近寄って来て、私を抱きしめた。


 律の匂いに私は体中の力が抜けそうになる。


「…痩せたね。ごめんね」


 私は何も言えずに首を横に振る。胸の温かさが心地良すぎる。


「愛してる」


 耳に優しい言葉が流れ込む。


「あい…」


 私も返そうとして、喉が詰まる。


 いつか気持ちが変わるかもしれない。その時に律の重荷になんかなりたくなかった。 


「莉里…。ごめん。好きになって…」


「そんなこと…」と思わず顔を見上げる。


 泣きそうな律の顔があった。


「苦しかった?」と訊く律の顔が辛そうだ。


 私はその輪郭をそっと両手で挟んだ。


「素敵だった。何もかも…幸せで」


 二人で暮らした時間は優しい時間だった。私は後悔なんかしていない。つま先で立ってそっと唇を寄せる。律の匂いが強くなった。唇を離して、息を吐く。


「ありがとう」


 律の目を見て言う。


「あの…第二楽章も…ありがとう」


 柔らかい笑顔の瞳が揺れている。


「うん。いつも莉里を想って弾くから」


 私はきっとこの曲を聴くとき、律を思い出すだろう。一緒に過ごした時間を繰り返し振り返ることになる。


(ずっと忘れられない音になる)


 目を閉じて息を吐いた。


「莉里…待ってて欲しい」


「え?」


「迎えに行くから。すぐに迎えに行くから」


「でも…お別れするつもりだったんでしょう?」と驚いて聞く。


「そのつもりだった」


 律は緑ちゃんがしたことも許せなかったけれど、そもそもが自分が原因だと思った、と言う。もともと気持ちを一人で抱え込んでいようと思ったのに、それができなくて、私が傷つくようなことになって、律自身ショックだったと言った。


「離れた方が幸せに…なるんじゃないかって」


「…私は…」と言ったきり、言葉に詰まる。


 そしたら代わりにお腹が鳴った。


 それで律は笑いながら「やっぱりお腹空いたから、折角だし、一緒に食べようよ」と言う。


 お腹が鳴って恥ずかしいから、私はその提案を受け入れた。



 二人でフォーの店に入る。牛肉のフォーは赤い生肉の薄切りが乗っていて、初めて見た時はこれを食べていいのか不安になるけれど、口にいれると美味しくてずっと牛肉のフォーを頼んでしまう。小さな小皿に甘辛い味噌が入っているのでそれをスープに混ぜる。別皿に山ほど野菜が載せられている。


「うわぁ。不思議な味のする葉っぱだ」と律が言う。


「せっかくだから野菜取らないと」と私はそれをフォーの中に入れた。


 不思議だ。律といると、味がする。ちゃんとおいしい味が。


「莉里…お願いがある。一位が獲れたら…来て欲しい。そしてずっと側にいて欲しい」


「…律。いいの?」


 頷く律を見て、私は涙を零す。

 私たちはもう一度、約束した。また会うことを。未来にいつかまた同じ時間を過ごすことを。

 三日間、律と一緒に過ごした。たっぷり愛して、愛された。



 最終日の朝、私がスーツケースに荷物を詰めていると、


「莉里…」と言って、私の携帯にデータを送ってくれる。


 悲愴の第二楽章が入っていた。

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