第56話

違反


 私は律が嘘をついて、私のことを忘れた振りをするのなら、私はそれを信じる振りをしようと思った。コンクールのファイナルが始まる。


「あぁ、やっぱり…」と言って、則子さんはプログラムを見る。


 他の二人はショパン、ラフマニノフの協奏曲を選択していた。


「…これ、やっぱり厳しいわ」


「ベートーベンじゃ…勝てないですか」


「うーん。相手が大きなミスするとか…。でもそうそうないし。律君が余程いい演奏をしたとしても…厳しいわね」と則子さんは眉間に皺を寄せた。


 どうして律がこの曲を選んだのかは分からない。でも私は律が思うように演奏できたらいいな、と思って着席をする。


 協奏曲なので、オケと一緒に演奏するからか、私は寝ずに済んだ。ショパンを演奏する人も気迫が伝わってくる。


 律は最後の演奏だった。二人目の人が演奏が始まる。余程しっかり練習しているのだろう。自信溢れる演奏だった。みんなこんなにうまいのだから、順位をつけるのは難しいだろうな、と思った。

 則子さんの横顔を見ると真剣に見入っている。本当はピアノ科だったという則子さんだっていろいろ思う事はあるのかもしれない。



 休憩をはさんで律だった。お手洗いに行っておこうと移動していると、緑ちゃんに会った。


「お姉さん。この後、律君に会いますか?」


「ううん。そのまま帰るつもり…」


「…そうですか。私、謝りたくて。でも会ってくれなさそうだから」


「うん。でも…私は付き添えないから」


 そう言うと、緑ちゃんはため息をついた。私は「じゃあ」と言って、トイレに向かう。


 人が多くて、イタリア人が楽しそうに会話している。フランス語と似ているけれど、やっぱり違うことも多くて、会話はさっぱり分からなかった。


 ただ日本人というのは分かる。律のことを話しているのだろうけれど、それがいいのか、悪い話なのか分からない。


 律が上手くいくように、と私は祈りつつ休憩時間が永遠に思えた。



 会場が暗くなって、舞台だけが明るくなる。指揮者の後に律が現れた。挨拶をするとピアノの前に座った。ベートーベンの協奏曲五番だ。皇帝と言う名前が付けられているだけあって、威風堂々したメロディで、律は楽しそうにピアノを弾き始めた。


 久しぶりの律の音を聴いて、私は最初から涙が零れた。


 律の音だ。


 アパートで練習していた律の音がホール一杯に響く。


 生き生きした音があふれ出している。コンクールという気負いがないのか、律は本当に楽しそうだった。私はハンカチで目を押さえる。


 もう律は大丈夫だ。私がいなくても、ちゃんとピアノを頑張っていたということが分かる。


 もともと一人でやっていたのだから、それはそうなのかもしれないけれど。


 私は律を送り出してあげることができたような気がした。


 舞台にいる律は遠い世界の人に見える。金色のライトが燕尾服を着た律を浮かび上がらせる。本当に大天使ミカエルがピアノを弾いてるように、ホール中に眩しい音が広がった。



 長い演奏が終わった。聴衆がイタリア人だからだろうか、拍手が大きかったし「ブラボー」と叫ぶ人もいた。指揮者も三人分の協奏曲は疲れたのかやり切ったという表情を見せていた。


「すごいわね」と則子さんが周りを見て言う。


 律が立ち上がって挨拶をし、指揮者と握手をする。鳴りやまない拍手にもう一度頭を下げた。


「ベートーベンでここまで熱狂させるなんて」と則子さんが呆然と言う。


 そして律はありえないことをした。


 またピアノの前に座ったのだった。


 観客がどよめいた。コンクールで勝手なことをしたら、間違いなく落とされる。それなのに律はまるでアンコールがあったかのように、ピアノを弾こうとする。指揮者も一瞬、戸惑ったような顔をしたが、律があまりにも優しく微笑んだので、諦めて指揮台で待機した。




 聞こえてきたのは悲愴の二楽章だった。


『莉里のことを想って弾くから』と言ってくれた曲だった。


「何やってんの」と小さな悲鳴のように則子さんが呟く。


 私はただ動くこともできずに律の音を聴いていた。


 優しいメロディがホールに流れる。スタッフも誰も止めなかった。観客も静かに耳を傾けている。


 涙が零れた。


『愛してる』


 何度も繰り返した声が聞こえる。


『愛してる』


 何度も返した言葉だった。


『愛してる。今でもずっと』


 律の声が聞こえる気がした。


 なぜか観客からすすり泣く音が聞こえる。

 感情豊かなイタリア人だから?

 律の音が綺麗だから?




 私にはその音が「さよなら」に聞こえた。優しく穏やかに、そして美しく悲しい音。


 律が決めたことだから、私は受け入れよう。

 たくさんの愛をくれた。

 孤独だった私を救ってくれた。

 律にだったら何でも、何をあげても惜しくないのに、何も取っていかなかった。



「愛してくれて、ありがとう」


 そう呟いた。



 最後の音が消えて、律が立ち上がる。観客はしばらく動かなかった。ただ律がお辞儀をした時、拍手がホールを響かせる。



 そして律は国際コンクールで受賞できなかった。違反を犯したのだから、それは当然だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る