第55話 コンクールの行方

 セミファイナルが終わって、律はファイナルの三人に選ばれた。セミファイナルから一般人も入れるようになっている。でも私は聴きにいかなかった。結果は則子さんが教えてくれた。私は教会に通って、毎日、律のことを祈っていた。でも律に会うのが怖くて、コンクールが終わった後の時間はホテルで過ごすようにした。ホテルの前のパニーニ屋さんでご飯を買ったりするだけで、買い物にも出かけなかった。

 ヘンミンキにも言わずにイタリアに来たので、普通に彼からカフェのお誘いが来たけれど、私は来週までイタリアにいると言って返事を返した。

「イタリア? どうして?」」と可愛いスタンプ付きで返してくれる。

「スタンプ、かわいい。律が最終選考に残ったから」

「リリィは彼のことを信用してたんだね」

「え?」

「最終まで残るってこと」

 ヘンミンキの返信を見て、もちろん則子さんがそう言ったというのもあるけれど、私は迷わずここまで来たのはそういうことだと思った。

「うん。ちゃんと残った」

 届いた可愛いスタンプがサムズアップしている。

 そのスタンプを見て、私は律にそうしてあげたかったと思った。誰よりも喜んであげたかった。そのためにここに来たのに…。ため息をついて、私はホテルにいると、則子さんが晩御飯に誘ってくれた。

「律は今日は先生と食べるって言ってたから、鉢合う事はないから」と丁寧に律の動向まで教えてくれる。

 そこまでされて断れないので出かけることにした。近くのリストランテに行くと、もうワインを飲んでほろ酔い加減の則子さんとイリスがいた。

「イカのフライが美味しいわよ」と則子さんが言う。

 私はミネラルウォーターを頼んで席に座った。

「今日、本当にすごかったの。どうして来なかったの?」とイリスに訊かれた。

「私が来て動揺させたくなくて」

「そんなちょっとやそっとで揺らぐような演奏じゃなかったのよ」と言うと、則子さんは律がステージでどれだけ素晴らしかったかを説明してくれる。

「今まで聞いたどんなピアニストより良かったんだから」と言われると、こっそり聴いておけばよかったかなと思った。

「でも…」と則子さんは言う。

 イカのフライをフォークに差して「どうして本選はベートーベンなの?」と私に聞いてきた。

「ベートーベン?」

「そうピアノコンチェルト五番」と則子さんはイカフライを口に入れた。

 それがどういう意味か分からなくて、私は首を傾げた。

「本選はコンチェルトって言って、オケと一緒に演奏するの。華やかな舞台なのよ。それなのに、どうして地味なベートーベンなのかなぁって」

 最終本選となると、技術面でもそうだが、魅せる演奏をしなければならない。だからラフマニノフや、チャイコフスキー、ショパン、リストなどの華やかな曲の方が映えるし、テクニックも必要だ。古典のベートーベンはどうしても華やかさにかけて、コンクールは選曲での差も大きく出てしまう。

「律君だったら何でも弾けたはずなのに」と則子さんは首を傾げる。

「…まさか」

 私がベートーベンしか分からないからだろうか。でもベートーベンでも協奏曲五番なんてよく分からない。私を考えての選曲じゃないはずだ。

「そのベートーベンの五番って」と私はどんな曲か聞いてみる。

「皇帝って別名がついてる曲。知らない?」

 やっぱり知ってる曲ではない。

「どんな曲か…さっぱり」と私が言うと、則子さんは笑った。

「超有名曲だけど…。でもまぁ、コンクールで勝ちに行く選曲じゃない気がするのよね。余程、弾きたいのかなぁ」 

 それは全く心当たりがなかった。

「他のファイナリストの曲を見ないと分からないけれど、難しいと思うのよねぇ」と則子さんはまたイカフライをフォークで差す。

「後さ…。私、気のせいかもしれないけれど、会場で緑ちゃんを見た気がするのよねぇ」

「え? 緑ちゃん…」

「まさか来ないとは思うから人違いかもしれないけど」

 イリスが「まぁ、今夜はセミファイナルが終わったばっかりだし、素敵な演奏だったからいい気持ちでいましょう」と言った。

 私は遅れて運ばれてきたミネラルウォーターで乾杯した。本選は二日後だった。律は一日、オケとの合わせや練習で外に出られないだろう、と則子さんが教えてくれる。

「買い物行っちゃおう」と私を誘ってくれた。

「うん」とは言うものの、私は特に欲しいものがなかった。

 それでも気が晴れるかもしれないし、教会に行く以外にやることがない私は一緒に出ることにした。


 翌朝早めに教会に向かう。別にカトリック信者じゃないけれど、私はここでなら祈っていても不思議に思われないと思って、手を合わせた。

 律が自分の実力を発揮できますように、と祈る。本選に残るだけでもすごいことだ。きっと律はいいピアニストになる。

 街の教会に訪れる人は少ないが、数人は朝から熱心に祈りをささげている。私は一番後ろの席で手を合わせる。律が幸せな人生を送れるように。

 そうして席を立って、教会から出た。まだ朝の気配が十分漂っている。

「お姉さん…」

 振り返ると緑ちゃんがいた。思わず息を飲む。昨日、則子さんが言っていたことは見間違いじゃなかった。

「…緑ちゃん」

「セミファイナル…に来られなかったんですか」

 緑ちゃんはもうあの時のような気迫はなかった。そして近くのカフェへ私を誘う。まだ約束の時間まで随分あったので、私は着いて行った。


 朝のカフェはたくさんの人で賑わっている。でもカウンターで飲んで、立ち去る人が多いので、テーブル席はそこまで込んでいなかった。 

 席につくやいなや、緑ちゃんは私に謝った。

「ごめんなさい。お姉さんを傷つけてしまって」

「あ、大丈夫。律が後ろに引いてくれて」

「あの…あの後…。私、律君に…」

 緑ちゃんは私が気を失っている間の話をしてくれた。緑ちゃんが慌てて抜こうとしたナイフを律が手を叩いて、止めさせて、そして首回りをひっつかまれて「触るな」と恫喝されたと話してくれた。律の手が震えていて、殴られる覚悟をしたという。それをお父さんが何とか離して、お母さんは私の介抱をしようとしたけれど、何もできないまま、結局、律がアルビンに頼んで救急車を呼んでもらった。

「え? じゃあ、律は…頭を打ったのは…」

「打ったかもしれませんけど…。その後は…普通にしていて。それで私の親に連絡するように言われて…。その間、ずっと莉里さんのお母さんが泣きながら律君を責めて…。私もパニックで…。あることない事言ってしまった気がして…」

 緑ちゃんの言うことが本当だとしたら、記憶なんて失われずに、忘れたフリをすることで、律は私と別れることを決めたのだ。だからあんな風に――私を「お姉さん」と呼んで拒絶した。

「そっか」と私はため息をついた。

 アルビンも…知ってたんだ、といろんな思いが胸に去来する。ちょっと考えればすぐにわかる嘘なのに、と私は少し悲しくなる。

「お姉さん。本当にごめんなさい。でも…やっぱり姉弟ではどうにもならないと思うし…、それは私が…言う事じゃないにしても」

「ううん。そう。どうにもならないの。ごめんね」

「え? どうして…」

「私がいなかったら、緑ちゃんも…そんなことしなくて良かった」

 私は本当は律に謝りたかった。私が律を好きになって、お互い苦しんだように見えて、きっと律の方があんな下手な芝居までして辛かっただろうと思った。

「…そんな」

「ファイナルは見に行こうと思ってて。緑ちゃんも行くでしょう?」

「…はい」

 私たちはようやくメニューを開いて、何を注文するか決めた。朝の時間から優雅にケーキを食べている老婦人がいる。私はなぜかその姿に今すぐそうなれたらいいと思った。

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