第54話
選べないデザート
則子さんとイリスと一緒にイタリアのレストランに来ていた。イタリアはフランスと違って、何だか人々が賑やかだ。
「ねぇねぇ、パスタ、何食べてもおいしいの」と則子さんが喜んでいる。
「フランスはパスタはほんと頂けないわよねぇ」とイリスも同じように言うから私は笑ってしまった。
イタリアのレストランはパスタが本当に美味しい。その代わりパンはそこまで美味しくはなかった。パンはフランスの方が断然美味しい。上手く行かないものだ、と思う。
ゆっくり食事をとりながら、にぎやかな周りの人たちの話声のせいで、こっちも大声になる。
「…莉里さん、痩せたね」と則子さんに言われた。
私は則子さんには何があったのか説明した。
「あの子、帰国して良かったわよ。ピアノも弾かなくて、なんだか本当におかしくなってたから。フランスにいると、ちょっと寂しさでおかしくなる人もいるからね」と緑ちゃんのことを言う。
イリスもため息をついた。
「それで律があなたのことだけを忘れたって?」とイリスが聞いてきた。
「そう…です」
「則子、律から何か聞いてないの?」とイリスが聞く。
「…聞ける感じじゃなかったのよ。なんだか前よりピアノにのめり込んでて。コンクール受けるなんて、そういうのも…なんていうか…。私…忘れてないって思ってるの」
「え?」
「忘れたフリしてるだけ…だって思う」と則子さんは私の目を見て言った。
(律が私を忘れたフリをしている? 一体、どうして?)
「まぁ、もしかしたらそういうこともあるのかもしれないけど、ある特定の人物だけ忘れるなんて…都合が良すぎるし…。それに本当に完全に忘れてたら、あんなに辛そうなはずないじゃん。ピアノにあそこまで没頭するって。もちろん前からそういうタイプではあるけれど、あんな…もうピアノ以外は見えてないみたいな…」
「…忘れようと…律が…そうしたってこと?」
「何か事情があったのかも。でも分かる気はする。自分のせいでお姉さんが傷つけられたんだし、その場にいなかったから私…分からないけど、緑ちゃんの様子がおかしくて」
「え?」
「緑ちゃんに訊いたのよ」
帰国すると聞いて、紀子さんは緑ちゃんに貸していた楽譜を返してもらおうと家まで行ったらしい。そしたら
「律…くん…私のこと…」と震えるような感じで言い出して、緑ちゃんの両親が慌てて出てきて口を押えたらしい。
「律くんが?」と聞き返したけど「いえ、何でもないんです」とお母さんに言われて、楽譜は自分で探して欲しいって言われて部屋に入ると、部屋はぐちゃぐちゃで、楽譜を探すのも苦労したと言う。
「律が何か…したの?」
「まぁ、どうかな。もしかしたらかっとなって手を出したかもしれないわね」
そう思うと、お互い警察にも言わなかった理由が分かる。
「緑ちゃん…怪我してたの?」
「見た感じは分からなかったわ。まぁ、直前で止めたのか、誰かに止められたのかは分からないけど。身体的には元気そうだった」
好きだった人に手を上げられそうになって精神的におかしくなったのだろうか。
「…なんにせよ、律が私と距離を取ることを…選んだってこと」と私は呟いた。
「まぁ、分からないけど。本当に記憶が飛んでいるのかもしれないし」と慰めるように則子さんは言った。
「…そうね」
コンクール前に会うのは辞めておくことにした。私は心からピアノは頑張って欲しいと思っていたから、私のことを忘れようとしてようが、忘れてようが、落ち着いて本番に臨んで欲しかった。
「さぁ、ドルチェを頼みましょう」とイリスが声を明るくして言う。
イタリアではドルチェヴィータ(甘い生活)という言葉があったな…なんて思いながらメニューを眺めた。
「あ…」と則子さんが言うから顔を上げると「律…くん」と言う。
振り返ると、久しぶりに見る律がいた。
一段と精悍な顔立ちになっていた。
「こんにちは」と私たちひとまとめで挨拶をしてくれる。
私はまるで他人のように軽く頭だけ下げた。ただ一瞬、律が私を見て、視線を逸らした。
(頑張ってね)と口に出さずに思って私は背中を向けた。
「お昼ご飯は終わった?」と律がみんなに言う。
「ええ。今からデザートよ」とイリスが答えてくれる。
「よかった。じゃあ」と律が言うのを私はメニューに視線を落としたまま聞いた。
「莉里さん…」と則子さんが声をかけてくれる。
「…デザートは…選べそうにないな。カプチーノだけ」とメニューで顔を隠して涙を零した。
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