第50話
別人
私は驚いて、目を見開く。
「誰だ」とお父さんが言うと同時に律が私の前に出てくれた。
「お姉さん、伝言いつまで伝えないつもりですか?」と笑顔で緑ちゃんがにじり寄ってくる。
何度も私に声をかけてたのはもしかしたら、近くにいたから…。家を知るために後をつけていた? そう言えば…なんとなく視線を感じていたのは…緑ちゃんだった?
緑ちゃんは飛びつくように律に向かって行く。手にナイフを持って。
私は律の手を守ろうと、前にいた律の前に飛び出る。
「莉里」
律の声が聞こえた瞬間、後ろに引っ張られて、痛みを感じながら律と一緒に後方に倒れた。
(律の手が…無事だった)
痛さよりもお腹に刺さったナイフと服に血が滲むのを見て、私は目の前が暗くなった。
目を開けた時、私は病院にいた。
「律? 律は?」
両親がいて、律がいない。
不安になって、私はあたりを見たが、律が見当たらなかった。お母さんはもうしぼんでしまったかのようにひどい顔をして椅子に座っている。
「それが…頭を打って…」とお父さんが答えた。
「え?」
私の下敷きになったから? と不思議な気持ちになる。
「莉里…。律は記憶喪失になった」
「え?」
驚いて私は両親の顔を見る。
「記憶? そう…しつ? ピアノは? ピアノは弾けるの?」
「…うん。でも…」とお父さんは言いにくそうに、律が私のことを覚えていないと言った。
「嘘…。嘘でしょ?」と私が言う。
「嘘じゃないんだ。だから…今もレッスンに行ってる」
「え?」
レッスンに行けるのに、私のこと忘れてしまうなんてことあるの? と思ったが、律がここにいないことがその証明になる…。
「…そう。それ以外は…大丈夫? なにも悪いところはないの?」
「あぁ。今のところは…」とお父さんが言う。
手当も終わっていたし、私は意識を取り戻したということで、すぐに退院できた。律があの瞬間、私を後ろに引いてくれたので、本当に小さな傷だけですんだ。
そして私は両親とともにホテルでしばらく過ごした後、帰国することになった。結局、学校は終了できないままだったけれど、仕方がない。
両親から聞いた話だけれど、私を刺して、血を見た緑ちゃんはへなへなと座り込んだらしい。本人は私を刺すつもりじゃなかったと言っていたようだった。律も頭を打っ
て倒れていたし、緑ちゃんは自分で親に電話をかけたそうだ。そこで私の両親と話して、お互いの体面もあってか、警察沙汰にすることはなかった。医者に転んでナイフで刺したと説明したそうだ。不思議そうにされたが、外国人ということもあってあまり意思疎通がきっちりできないだろうと諦められたのか、とりあえず私の処置はしてくれ
たようだった。
そして緑ちゃんの両親が慌てて来て、多額の慰謝料を振り込んでくれたらしい。そして緑ちゃんも強制的に帰国させられた。
退院後初めて律の部屋に戻る。律はあれから一度も連絡して来なかった。本当に私のことをまるで忘れているみたいだった。
ドアを開けると、律がピアノを弾いていた。いつもだったら、出迎えてくれるのに、ずっとピアノを弾いていた。
遠慮がちに私は部屋に入る。
「律…」と声をかけると、驚いたような顔で私を見た。
「あ、あの…」と律が言う。
「あ、記憶がないって…聞いたんだけど」
「…お姉さんのこと忘れてしまって」と俯く。
お姉さんなんて、ずっと言われたことなくて、私の方が呆然としてしまった。
「お姉さんが俺のこと、かばってくれたって聞きました…」
「あ、うん。ピアノは弾ける?」
「はい。何とか。なんだかご迷惑をおかけしたようで」
「ううん。いいの…ピアノが…弾けるのなら」と私は震える声で言った。
まるで別人のようだった。
「荷物をまとめるから」
「あ、先日、お父さんが来て…まとめてくれてました」と部屋の端に置かれたスーツケースを指差す。
律があの人と言ってたのにお父さんと言ってる。
「…あ、ありがとう。じゃあ…私…」
我慢していた涙が溢れだす。
「大丈夫ですか?」と律が慌ててティッシュボックスを差し出してくれる。
私は受け取って涙を拭くと、モンサンミッシェルで買ったお土産のマグネットのことを思い出した。お父さんもそれが私のものだとは分からないはずだった。
「ちょっと入れ忘れてるものがあると思うから寝室に行っていい?」
「はい、どうぞ」
私は戸棚に入れた紙袋を取り出す。チェックの赤の紙袋からモンサンミッシェルのマグネットを取り出した。
「これ…。記念に置いておくね。ピアノ…頑張ってね」
「はい。頑張ります。本当にすみません」と律が頭を下げた。
私たちは健全な姉弟に戻った。
「律…ずっと…応援してる」
「それは…ありがとうございます」
そして律がまた頭を下げるので、私はスーツケースを引いて、玄関を出た。アルビンの部屋を通過する時、私は扉をノックした。運良くアルビンはいた。
「…莉里。大丈夫? 怪我したとか…」
「あ、そうなの。あの…律が私のこと忘れて。他のことは覚えているみたいなんだけど、そんなことってある?」
「…え? 莉里のことだけ?」とアルビンは驚いた。
そして人間の脳はまだまだ解明されていないことがあるから、そういうことがあるのかもしれないけれど…と呟きつつ、結局ははっきり分からないと言われた。
「…そう。きっと、本当に忘れたのよね」と私は言った。
「莉里…。彼と過ごしたら? 思い出すかもしれないよ」
「…ううん。私、もう帰国しなきゃいけなくて」とアルビンに言った。
「そっか。残念だね。また戻って来るだろう?」
「…もう、二度と来ない」と私は言った。
「え?」
「本当に幸せだったから」
幸せだったパリの思い出は過去にしかない。足元にマシューが現れた。私はマシューにも最後のお別れをした。
「マシュー。会えてよかった。愛してる」と私は言えない言葉をマシューに言った。
「じゃあ…」とアルビンともお別れをした。
「莉里…。元気で」
「アルビンも…」と私は手を振った。
彼に励まされたことを思い出しながら、私はエレベーターに乗った。私のことを忘れてしまっているけれど、でも私は変わらず律のことを応援しようと思った。
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