第49話

ナイフ


 お母さんは何も言わずにひたすら泣いている。私がそうさせたのだと思うと胸が痛んだ。


「ごめんなさい」と私は言うことしかできない。


「さっきも言ったけど…、俺が悪いんで…」と言いながら律はお父さんを見た。


 まるで原因はお父さんにあるだろう、と言うような顔をしていた。


「本当に…姉弟なの…。だから…そんなの」とお母さんは切れ切れに言う。


「二人は子どものことはどう考えているんだ。子供ができたらどうするつもりだ?」とお父さんが言うとお母さんの肩が跳ね上がる。律は立ち上がって、棚から封筒を取り出してテーブルの上に置く。


 日本の病院名が印刷されていた。


「妊娠しないように、俺が手術したから」


 お父さんは驚いて、封筒から紙を取り出した。領収書から手術内容などの書類が出てきた。


「律…。お前…まさか」


「何より子供が被害者になると思うから」とお父さんに当て擦った。


 お母さんはその封筒を眺めて、泣き止んではいたが、もう生気がない顔だった。


「お母さん、ごめんなさい。裏切るとかそういうつもりじゃないの。ただ…律を」


「もう…聞きたくない」と呟く。


 こんなに苦しめたのは私だと思うと、何も言えなくなった。


「姉弟で…。避妊手術とか…。理解できない」とお母さんは俯いたまま言う。


「理解は求めてません」と律が冷たい言葉で言う。


 お父さんもお母さんも黙ってしまった。


「お母さんにもお父さんにも感謝してるし、申し訳なく思ってる。だから、ここにいたいって言う我儘を通すなら自力でするべきなの分かるから…」と私が言うと、お母さんが反射的に声をあげた。


「何言ってるの! 莉里は帰国しなさい。すぐにいい人と結婚するのよ」


 帰国したら、私はまたお母さんのお人形だ、と思った。お母さんは間違いなくすごいスピードで相手を探してくるだろう。


 その時、横で律が笑った。


「娘に結婚を強制する程、幸せでしたか?」


 お母さんが目を見開いて、律を見た。


「おい」とお父さんが咎めたが、律はまだ笑ったまま「それとも結婚は義務ですか?」と二人に聞いた。


 律の言いたいことは分かるけれど、これ以上、両親を追い詰めたら律の資金援助が無くなる、と内心ひやひやした。


「あなたは幸せだったと言えるんですか?」と律は私のお母さんにもう一度、聞いた。


 言葉を詰まらせたが「莉里が…いてくれたから」と母は言う。


 私はその台詞を聞いて、涙が零れた。


 夜にキッチンで泣いているお母さんを知っている。眠れないのか朝に私を送り出してからベッドに入っていたことも知っている。私のせいで我慢していたことも知っている。


「…お母さん、もし…私がいなかったら離婚してた?」


 私は初めて、お母さんに聞いてみた。


「それは…。莉里には関係ないの」


「でも」


「勇気が私になかっただけ」と肩を落として、続けた。


「でも莉里を言い訳に…離婚しなかったのかもしれない。本当は私の勇気の無さと…打算」とお母さんは初めて本音を話した。


 それを聞いたお父さんは少し眉根を寄せた。


「…でも莉里には幸せな結婚をして欲しいの。私とは違う。莉里には幸せになって欲しい」と言う。


「私、今、幸せよ」と言ってみたが、首を横に振るばかりだった。


 ずっと黙っていたお父さんが口を開く。


「二人のことは到底認められない」


 律は深くため息をついた。


 ただお父さんは私の帰国を条件に律を援助し続けると言ってくれた。


「莉里が帰国して日本で勉強する分には援助する」


「お父さん…」


「今の学校が終了まではパリにいてもいい。延長は認めない。終わったら帰国すること」


 今すぐ帰国とはならず猶予をくれた。


「二人のことは一生受け入れることはできない」と父は言いながらも、私が自活できるように手助けしてくれると言ってくれた。


「お母さん、私、帰国しても…結婚しないから」と言う。


 もうお母さんは何を言う気力もなくしたように俯く。その姿は本当にかわいそうだった。唯一の味方でなければいけなかった私に裏切られて、一人になってしまった。


「じゃあ」とお父さんが立ち上がった時、扉が開いて風が通った。


 両親が来た時、慌てていたので部屋の鍵を閉めるのを忘れていた。

 緑ちゃんが立っていた。


「やっぱり気持ち悪い」


 手に小さなナイフを持っている。

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