第51話

遠くなる


 日本に帰国して、私は大学院の受験の準備を始めた。母校に行って、教授に相談して、推薦状を書いてもらうようにお願いしたり、試験対策についても教えてもらう。そうして一日一日消化していった。お母さんは私が戻って来たので、不思議なほど元気になった。だからこれで良かったのだ、と私は思う。そう思うのに、ふとした瞬間に律のことを思うと立っていられなくなる。電車の中、街中でも不意に律のことを思ってしまう。


 律からはメールの一つも来なかった。そう。もう記憶にない姉のことなんて思い返すこともないまま過ごしているのだろう。私からもメールなんてできなかった。




 秋が深まった頃に、ヘンミンキから連絡が来た。どうやら日本の大学に編入していたらしい。生活の細々した質問が気になったので会うことになった。


 ヘンミンキと会ったのは駅前のカフェだった。背が高いヘンミンキはすぐ見つかったが、逆に彼は私のことを見つけられなくて、近づいて声をかけると驚かれた。


「リリィ。小さくなったね」


「え? 変わらないと思うけど…」


 そんな話をしながら、近状を話す。私は大学院に入るために準備をしている、と言うと、ヘンミンキは「良かったね」と言ってくれた。


 彼は日本語についてやっぱりちゃんと勉強したいと思って、日本に来たらしい。交換留学をしている大学に入ったという。


「ただ、日本はすごく近代的なんだけど、なんか分からないことが多くて」


 ヘンミンキは安いアパートを探したらしいのだけど、そのせいで畳だという。それで靴のまま上がると日本人の友達に指摘されたという。


「フローリングマットとか敷くといいかもしれないけど…。でも日本の気候的に、部屋の中は靴を脱いだ方がいいと思う。湿度が高いから」


「へぇ。そっか。だからみんな靴を脱ぐのか」とヘンミンキは納得したような顔をした。


「もちろん文化として靴を建物の中で履かないっていうのもあるけど、でも…環境的にそっちの方が合うと思うの」と私は言った。


「リリィは天才だね」


「どうして? 普通のことだよ」


「あ、じゃあ、日本人が天才ってことか」とヘンミンキは笑う。


 なんだか可笑しなことを言ってるな、と私は思いながら微笑んだ。


「リリィ、なんか辛い事あったの?」


「え?」


「…ちょっと悲しそうだし…。彼氏いるって聞いたけど」と言うから、私は全部話した。


 異母姉弟の間で恋をしていたということ。GSAという関係かもしれないけれど、本当に愛していたということ。そして事件があって、頭を打ってしまって、私のことだけを忘れたということを全部話した。


「リリィ…。それは辛いね」


 驚いたようだったが、真剣に話を聞いてくれた。


「うん。でも…良かったのかも。だって…私のこと忘れてピアノに専念できるし…」と言って、涙を零した。


 ヘンミンキが渡してくれたのはムーミンワッペンが付いたハンカチだった。


「え?」と私は思わずハンカチを見る。


「フィンランド人がムーミンのハンカチ持ってるの…おかしくない?」


「そうかな。分からないけど。ヘンミンキが持ってるのがちょっとかわいらしくて…」


「あぁ、それでか。みんなちょっと笑うんだよね」と笑う。


「ありがとう」と言って、私は自分のハンカチを取り出す。


 私のは特に何の変哲もない水色のストライプのハンカチだった。


「リリィ、ハンカチ、交換しない?」


「え?」


「だって、それだったら笑われないでしょ?」とヘンミンキが言う。


 確かに男性が使っても変ではない。


「…これ、新しいし、まだ使ってないから」とヘンミンキが慌てて言う。


「いいよ」と言って、私はハンカチを交換した。



 それで私たちは時々会うようになった。ヘンミンキは編み物が好きらしく、時々、編み物を持ってきては私の目の前で器用に編む。それはムーミンのハンカチ以上にミスマッチに思えるけれど、大きな体を丸めて毛糸を編む様子は微笑ましく感じた。


「クリスマスの準備をしているんだ」とヘンミンキは言う。


「あぁ、もうそんな季節だ」と私は思った。


 それで律が夏にニューヨークでコンサートをすると言ってたことは上手く言ったのだろうか、と思った。


「これはおばあちゃんの帽子」と言いながら器用に手を動かす。


「私は全然編めないから…不思議」


「そう? 楽しいよ。無心になれるし」とヘンミンキは器用に手を動かしつつ話してくれる。


 二人で過ごす静かな時間は私を少しずつ癒してくれた。秋から冬へ季節が移り替わろうとしていた。

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