第46話

モンサンミッシェル


 モンサンミッシェルまで長いバスに乗る。律のことを知らない人ばかりだったので、周りの人たちは私たちを恋人同士だと思っていた。お父さんたちが来る前に「モンサンミッシェルに行こう」となったのはお互い覚悟を決めていたからだった。


 きっと離されると。


 あの時のように私たちには選択をする権利がなく別れることになると。


「でも律…。帰国しても会いに来るから。あのね。いろんな奨学金を得て、また来れるように頑張るから」


「莉里…。帰国のことなんて考えなくていいよ」


 そうは言いつつ、帰国というタイムリミットを意識すると、律と私はもう外でずっと手を繋いで歩いているし、たまに道端でキスだってしていた。


 ただ私は時折誰かに見られている気がした。それは日本人同士がキスをしたりすのが珍しいからかもしれない。


「莉里…。モンサンミッシェル…ほら、遠くに」


「あ、すごい。どうして海の中に教会を作ろうとしたのかしら」


 携帯で調べてみると、大天使ミカエルが近隣の教会の神父に夢で教会を海の岩場に建設するようお告げをしたと説明するから、私はこっそり律の顔を盗み見た。


 こんな美男子に言われたら、そうなるかな、と首を傾げたが、お告げを受けた人も最初は真に受けなかったらしい。しかし何度も同じ夢を見て、ついには額を指で押され、目が覚めると穴が開いていたから驚いて動き始めたという。大天使ミカエルってまぁまぁ、強引だ、と私はまた律を見てこっそり微笑んだ。


「何?」と律が私を見るから「ううん。なんか不思議ね。どうしてあそこに建てたらいいって夢で言ったのかなって」と私はごまかした。


「あの場所に何かあるのかな…」


「え?」


「たまに…ピアノ弾いてる時、もちろんベストを尽くせるようにいつも練習も頑張ってるけど、たまに…思いもよらないほどきれいな音が出る時がある」


「え?」


「何て言ったらいいのか分からないけど。もちろん俺が弾いてるんだけど…」と言って、律は黙った。


「…そうなの? じゃあ、律にも天使が何かお告げをしてるのかな?」


「まさか…」


 そして私たちはシャトルバス乗り場に着いた。今夜は対岸のホテルを予約してある。お土産が参道に連なる様は何だか不思議と日本と同じに感じた。


「律見て、可愛い小物…」


「買う?」


「後で見ていい?」


「いいよ。マグネットでも買うの?」


 可愛いマグネットが外に飾ってあるのを見ていたのがばれたようだった。


「オムレツが有名なんだって」


「後で食べる?」


「あ、今食べよう。お腹空いちゃった」


 でも有名なオムレツ屋は満席でし大人しく待つことになった。


「パリだったら、待たないけど…。ここに来るのに大変だから、並んで待とう」と律が言う。


 まるでもう二度と来ないみたいな言い方だった。

 もちろん、簡単には来れないけれど。


「うん」と言って、律の手を握った。


 最後の思い出を作りに来てる。去って行く幸せな時間をかみしめるみたいだ。あんなに毎日欠かさず練習している律が「二日、休む」と宣言して連れてきてくれた。


「ピアノ弾かなくていいの?」


「大丈夫」と言いながら、律は空中でまるでピアノを弾くように指を動かす。


 全然、大丈夫じゃないのでは? と思ったけれど、言えなかった。


 目の前に小さな女の子が飛び出してきた。どこの国の子どもか分からないけれど、白い肌に金髪の髪はくるくるとカールしていて、まるで描かれた天使のようだった。


「かわいい」と私は心底思っていたから口に出てしまう。

 女の子はじっと私の顔を見て、そして走って両親のもとへ戻っていった。両親は慌てて彼女を抱き上げて頬ずりしている。


 無意識でその様子を見ていたら、律が「やっぱり子どもは…欲しかった?」と私に訊いた。


「子ども? え? あ…でも…別に。律と一緒なら特に。それに…誰かの子どもを育てるのもありかな…なんて」と私は慌てて言う。


 律は淋しそうに微笑んで「そっか」とだけ言った。

 海風が心地よく吹くけれど、淋しさが少し増えた。


 私たちは順番が来て、待ちわびたオムレツを食べたけれど、何だかよく分からない味だったし、大きかった。でも前菜やデザートは本当に美味しかった。


「さ、食べたし、行こう」と私は席を立った。


 この一瞬、この一瞬が貴重でそして過ぎ去っていく。

 坂道を上がると、大きな教会があった。モンサンミッシェルの教会は最初はロマネスク仕様の教会だったが、後から後から、改築されて、外側はゴシック建築になる。違った建築様式が混ざっていて、珍しい建物だ。ゴシック建築は梁のアーチ構造で壁や屋根を支えることができ、背の高い建築物が可能となった。


「神様に近づけるような…気持ちだったのかな」と私は語学学校で学んだちょっとした美術史みたいな話を覚えていて、律に言う。


「うん。不思議だけれど、神様って上にいる気がするよね」


「それに近づこうと、こんな海の中に教会をたてて…。そして何人も海に飲まれて…」と私は海を眺めた。


「教会で弾くと、石の壁と屋根で音が響くんだ。でもそれだけじゃなくて、確かに…そこには神様がいる気がする」と律が言う。


 白い回廊を二人で歩く。私は不思議な気持ちになった。


「そんな場所で弾かせてもらえる機会に感謝してる」


(そう。きっと律はここで暮らす方がいい)


「律の音は綺麗だから、神様も喜んでるかも」と私が言うと、律は少し驚いたような顔をして、笑った。


(律と過ごした時間を私は大切にして、どこまで一緒にいられるか分からないけれど、これからも生きて行こう)


「律…ありがとう。律のおかげで私、自分で息ができる気がしてる」


「え?」


「いつも私はお母さんの機嫌を伺ってた。お母さんはどう思うだろう。お母さんは…どうしたら喜んでくれるかなって」


 律は私の手を握る。


「だから…こっち向いてくれなくて、辛かった」


「莉里…」


「だから律が愛してくれて、私、自分にも価値があるって思えるようになれて…」


 律が立ち止まった。


「お金のことは仕方ないけど、私、どうにかしてまた戻って来るから…律はここでピアノ弾いて待ってて」


「ピアノなんか…」


「律はきっと神様から愛されるから…」


「え?」


「きっとみんなに愛されるからピアノは…弾いて。ここで」


 海の風がふわっと通り過ぎていく。


「律…愛してる。神様に誓っていい」


「ここで…俺も誓う。莉里のこと、愛してる」


 私たちは教会内部ではない白い回廊で愛を誓った。律の長い手が私の頬に触れてキスをした。律の匂いを感じながら、私は祈った。

 ――神様、どうか、私の弟に祝福を与えてください。

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