第44話
呪いの誉め言葉
テーブルの上のスマホが鳴る。
「莉里? どこ?」とメッセージが届いた。
私はのろのろと立ち上がり家に帰ることにした。
「ちょっとカフェで」と返事をしかけて、私は律に電話をかけた。
「莉里? どこ? 迎えに行こうか?」
「律。お母さんに…言っちゃった。律のこと、好きって。それで…泣かせてしまって」
「え? ちょっと…。待って。すぐ行くから。どこ?」
「ううん。大丈夫。帰れるから。何か買って帰ろうか?」
「莉里? 何もいらないから。すぐ行くから。どこかで会おう」
そう言うから、乗換駅のカフェで待ち合わせすることにした。私は傷つけなくていいお母さんを傷つけた。それなら言わなくても良かったのだろうか、と悩む。
地下鉄の出口を上がると、律が駆け寄ってきた。
「莉里、ごめん」と言って、抱きしめられる。
人通りの多い夕方で、私は律に「大丈夫だから」と言って、離れてもらう。
「俺のせいで…」
「ううん。そうじゃないよ。誰のせいでも…」
(誰のせいでもない…と言えるのか分からないけど、私が傷つけてしまった)
「帰国…することになるかもしれないけど…」
「莉里…。絶対、一人にしないから」
律のこの先を考えると、帰国はもったいないと私は思った。まだここで頑張るべきだと思う。二人でカフェに入って、夕食を注文する。
私はチーズオムレツを注文した。律は鳥もも肉のローストを頼んだ。
「ごめん。莉里が辛い思いするのに」
「ううん。一番辛いのはきっとお母さんだと思うから。でも…受け入れられなくても、私は律の側にいたいって思ってる」
「…ありがとう」と律は微笑んだ。
私はもう律以外の人とは暮らせないと思った。誰かを傷つけても、自分を優先する日が来るなんて思いもしなかった。
「莉里、絶対に幸せにするから」
「幸せだよ。充分すぎるくらい」
そう微笑んだ。本当に律には感謝している。私はもしここで勉強することが叶うなら、語学学校ではなく正規の大学の科に入ろうと考えている。そしてそれで何か生活できる力を得たい。律とは違うけど、でもここで働ける就労ビザが取れるといいな、と考えている。
そして二人で毎日を作っていきたい。
「律、一緒にいられるように私も頑張りたいから」
「…ありがとう」
すっかり暮れた街を見ながら、私たちはディナーを食べる。
二人で手を繋いで帰宅したせいか、視線を感じた。
部屋に戻ると、律は私のためだけに悲愴の二楽章を弾いてくれる。きっと私が悲しんでいることを彼は分かっていて、弾いてくれる。
ソファに横になって、目を閉じて聞いていた。律の優しい旋律が私を慰めるように流れて、柔らかい音に包まれる。
この曲を聴いて、私は自然と涙を流した。
(律…ありがとう。愛してる。ずっと…)
私はこの日、お母さんに背いた。
怖かった。
独りぼっちにするのも、されるのも。
『莉里、いい子ね。本当にあなたはいい子』
その言葉は誉め言葉じゃなくて、いつしか呪いに変わっていった。
幼い私はそれが嬉しくていい子であろうとしていた。お母さん、周囲の人にとっても、私はよくできた娘だったはず。そうなろうとも努力した。
『あなただけ…。莉里だけ』
そう言って、抱きしめるお母さんは私なんて見ていなかった。それなのに私は嬉しかった。お父さんがいない家で私はお母さんに求められていると勘違いしていた。
私はお母さんを見て、お母さんはお父さんを見て、お父さんは聖さん…。みんなが一方通行だった。
「律…。私、辛いけど」
「え?」
「ひどいことしたって思うから辛いけど…、でも息…、自分で息できてる」
「莉里…」と側に来て、頭を撫でてくれた。
「だから…ごめんなさい」
「何で謝るの?」と微笑んでくれた。
「分かんない」
「いいよ。莉里は今まで頑張ってきたし」
律が私をベッドまで運んでくれた。
「重たいのに」
「まぁ、いい筋トレだと思うから」とそっとベッドの上に下してくれる。
そして額や頬にキスをしてくれる。その度に、愛されてるという温かさが心に満ちてくる。
「莉里を癒せるのは俺しかできない」と律が真面目な顔で言う。
すごい台詞を真面目な顔で言うから、私は思わず吹き出してしまう。律が少し機嫌を損ねたように眉を寄せる。
「本当にそう、そうなんだけど…。そんなイケメンで真面目な顔で言われたら…。ホストの決め台詞みたい」
「ホスト?」と律はちょっと、いや大分ショックを受けていた。
私はそう言って、形の整った律の顔の輪郭をなぞる。一周した時、律がその手を取った。
「でも律の言葉は嘘じゃないの知ってるから」
「…うん。無駄に顔がいいのが問題だな」と自分で言うから、私はまた笑った。
きっと私の気持ちを軽くしてくれようとしているんだから、本当に優しい。
「世界中で誰よりも愛してる」
またそんな臭い台詞を真顔で言ってくる。
「私も律じゃなきゃ…死んじゃう」と同じように返したら、律も笑った。
そして抱きしめられて耳元で言った。
「死なないよ」
「え?」
「大丈夫だから」
「律?」
お母さんを突然失くした律に私は軽率なことを言ってしまったことに気が付いた。
「ごめん」
「ううん。莉里も俺もずっと死なない」
「うん」
それは間違いなく嘘だけど、そう言わずにはいられなかった。
私はもう喋ることを諦めて、互いの体温を交わらせる。律の息遣いも肌の湿度も匂いも全て私のものだ。律もきっと私のことをそう思ってる。
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