第43話

覚悟



「帰国…しよっか」


「え?」と私は思わず顔を上げた。


「俺も一緒に帰国しようか」


「…そんな」


 私たちが日本で上手くいくなんてことはなさそうに思えた。


「莉里? 別に姉弟で暮らすだけなんだから」


「でも…お仕事減ってしまう」


「ヨーロッパのは…年に一度とかでいいんじゃないかな」


「律、大丈夫。ごめんなさい。ちょっと不安になってたの。私、帰国すると思うけど、遠距離でも…」と焦って口走った。


「俺は嫌だ」


 律と私は永遠に切れない関係だけど、配偶者にはなれない。ビザ問題を後回しにはできない。私はここで、家族とも向き合わなくてはいけないと思った。


「…律。私、お父さんと話してみる。もう少しここにいたいって。それでうまく行かないかもしれないけど」


「え? でも」


「いずれにせよ、お父さんには話さなきゃいけないし…。お母さんにも…伝えなきゃ」と私は覚悟を決めた。


 帰国することになろうが、なるまいが、私は両親に伝えなければならない。


「莉里…。ごめん」


「どうして?」


「なんか…辛い思いさせて。俺、スウェーデンだったら結婚できるって聞いて、国籍を取る方法を調べたんだけど、五年かかる」


「律が、スウェーデンに行くの? 今はそれは…」


「だから早くキャリアを積みたくて…。だから…あのバイオリニストとも」


「…律」


 律は律でなんとかしようと必死だった。


「大丈夫。私も何とかしようと頑張るから」


 両親に分かってはもらえないだろうけれど、隠し続けるのも難しい。私は勇気を出して、学校を続けることを父に言おうと思った。




 電話を掛けるのは緊張する。それでも私は電話をした。


「もしもし?」


「お父さん…。あの…学校のことなんだけど」


「学校?」


「うん。もう少し勉強したくて」


「パリじゃないとだめなのか? 他の大学は?」


「…ごめんなさい。勉強もしたいけど、律とも一緒にいたいの」


「莉里。…即答はできない」


「うん」


 電話はそこで切れた。



 そして私はお父さんからの返事を待ちつつ、いつも通り学校へ行った。学校帰りに一人で映画を見に行ったりして、なるべく夕方まで部屋に戻らないようにした。アルバイトももっと探そうと思いカフェでパリ在住日本人向け情報サイトを眺めたりする。


「お姉さん」と呼ばれて顔を上げると、緑ちゃんがいた。


 そして私の席に座り出す。


「え? アルバイトするんですか?」


「あ…うん。今、週一でシッターしてるんだけど…」


「へぇ。キャバクラとかどうですか? 音楽院の子もしてる子いますよ。日本人向けの。お金持ちたくさん来るから。中には愛人みたいになってる子もいるらしくて」と緑ちゃんは顔を顰めながら話した。


「…キャバクラ」


「お金…困ってるんですか?」と顔を横むけて話す。


「あ…うん。もっと勉強したくて…。でも両親は帰って欲しいらしくて」


「学費稼ぐなら、キャバクラでしかないですよ? そんな効率のいい仕事、他にないですもん」


 確かにそうかもしれない。でもキャバクラで働くことができるだろうか、と私は思った。すると緑ちゃんが笑い出した。


「向いてないですよ。まぁ…でも愛人にされちゃうかも」


「え? 愛人?」


 突然、緑ちゃんが何を言い出すのかと私は思った。


「キャバクラなんかで働いたら、お姉さんって世間知らずそうだから、悪い大人の良いようにされちゃいますよ。ところで律君は一緒じゃないんですね?」


「え? 今、練習中だと思うけど?」


「いつも一緒だから」と鋭いことを言ってくる。


「いつも…っていうか、平日は私も学校だし、そんなに…」


「律君のお母さんもピアニストで、この人でしょう?」とスマホを私に向けてくる。


 私は律の母親を初めてまともに見た。黒髪のロングヘアで大きな目をしっかり開いていた。確かに美人だった。


(この人がお父さんと…)


 須田聖《すだひじり》ピアニストと書いてある。


「ピアニストだから旧姓のままなんですよねぇ」と含みのあるような言い方をする。


 どこまで何を知っているのか分からないので、うかつなことは何も言えない。


「…義理の姉弟だったりして」


「え?」


「だって、律君、お姉さんにはすごく優しいんだもん」と緑ちゃんが言う。


 義理の姉弟だったらどんなに良かっただろう、と思う。


「ちゃんと姉弟よ。私が頼りなくて…心配してくれてるだけ」


「ふーん。まぁ、そうか。本当の姉弟で恋愛だったら気持ち悪いですよね」と確認するように言う。


 気持ち悪い。


 それが世間だ。


「緑ちゃんは何か頼む?」と私はメニューを渡す。


 こっちから呼ばなければ、店員さんが特に来ないのがフランスのカフェだ。


「うーん。いいです。ちょっとお姉さんが見えたから声をかけただけで」と言って立ち上がった。


「律君に返事してって言っておいてください。既読無視されてるから」


「…あ、ごめんなさい。言っておくわ」


 そして緑ちゃんは去った。私は自分のスマホで『須田聖』を検索してしまった。彼女は小さい頃からコンクールで優勝していたらしい。早熟で美人で人気だった。ただ律を産んだのが理由からかそこから特に目立った活動もなかったようだ。


 お父さんと聖さんは家族を顧みないで…恋愛をしていた。お母さんは意地でも離婚しないままだった。私がぼんやりしていると電話が鳴る。


 お母さんからだった。


「莉里? 学校を延長するって聞いたけど?」


「うん。もう少し…ここに」


「ねぇ…もしかして…」


「ごめんなさい」


 私は謝ることしかできなかった。


「まさか…」


 お母さんが息を飲んだ。


「だめよ。あの子は…だってあなたたちは本当に血が繋がってるのよ」


 私はもう一度掠れた声で謝る。


「どうして? どうして莉里まで」と何度も繰り返された。


 そう言われると、胸が張り裂けそうになる。


「ごめんなさい。私…律のこと…好きなの」


 私がとどめを刺したのかもしれない。お母さんはもう何も言わなくなった。

 沈黙が永遠に続きそうなので、もう一度謝って、私は電話を切った。


 きっとお母さんは泣いている。私は泣かせてしまった気の重さで辛くなった。


『どうして莉里まで』


 夫に裏切られ、そして最後に私がお母さんを裏切る。それがどれほど、酷いことなのか分かっていた。すっかり冷めたコーヒーは少しも減らず、私は暮れ行く街を眺めながら動けないままだった。

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