第42話
ビザ問題
「大好きな人の大好きな曲なので…弾いてしまいますね」と律はラジオのインタビューに答えていた。
どうしてアンコールで悲愴の二楽章を弾くのかと聞かれての答えだった。
律はあれから、いろんな人と共演し、いろんな場所でピアノを弾く機会が以前よりも増えた。オーケストラとコンチェルトもした。私が聞きに行ける時は必ずアンコール曲として弾いてくれる。
「それに…こんなに美しい曲はやっぱりみなさんに聞いていただきたくて」
そんな風にごまかしながら、柔らかく語る。
律はきっと成功するだろう、と私はそう思った。そして私は学生ビザの期限が半年を切っていた。
私の聴力は回復したものの、お父さんは連れ戻しにはこなかった。お母さんから時々連絡は入るものの、私は「もう後少しだから…引っ越しは面倒で」と言っておいた。
私は帰国が近づいてきている。
それなのに来年も学校に通いたいとお父さんに言うこともできなかった。
期間限定の恋…だとしたら、と私は窓の外を眺める。夏の間、窓を開けていた向かいの人も寒さで閉めている。私も窓を閉めているのでマシューも遊びに来ることはなかった。
廊下を走る音がして、扉が開いた。
「莉里!」と慌てた様子で律が飛び込んできた。
「どうしたの?」
応えずに勢いよく抱き上げられた。
「夏に…ニューヨークで弾けることになった」
「え?」
「急遽…代理で」と言って、私にキスをする。
聞きたいことがあるけれど、口が塞がれている。律の肩を軽く叩いて、ようやく離してくれた。
「代理って…」
もともと出演予定だったピアニストがスキーで腕を怪我をしたらしい。その代理に律が選ばれたということだった。
「莉里、絶対来て」とまだ私を抱きしめたまま言う。
「う…ん」
「どうかした?」
「ビザが…」
「あ…ビザか」と言って、ようやく私の体から離れる。
「いろいろ調べたんだけど、学生ビザを延長するのが一番なんだけど…お父さんに言いにくくて」
「そう…だね」と律は難しい顔を見せる。
「あ、でもニューヨークは絶対に行くからね」
「結婚…出来ればビザの問題だって…解決方法あるんだけど」
「…そう…ね。私が一旦、帰国して働いて、お金貯めて、またこっちに来るとかは?」
「嫌だよ。もう莉里と離れたくない」と両手で顔を挟まれた。
気持ちだけではどうにもならないビザ問題に私はどうしたらいいのか分からない。
「もし莉里が帰国するなら、俺も帰国しようかな」
「…でもこっちにいた方が…」と私が言うと律は唇を塞いだ。
リミッターがかかっているのだ、と思いながら、流されてしまいそうになる。
結論は出ないまま時間は立っていく。私は週二で日本人家庭の小学校の子どもの迎えと宿題を見るだけのシッターをしていた。仕事が終わって地下鉄に乗っていると「リリィ」とヘンミンキから声をかけられた。一瞬、誰だか分からなくて、困っていると「アルビンの生徒で、アニメ好きのフィンランド人」と自分から自己紹介をしてくれた。
「あー、えっと」
「ヘンミンキ」と名前も教え直してくれる。
「偶然だね」
「うん。どこ行ってたの?」
「ちょっと知り合いのお家に…」
「リリィはいつまでこっちにいるの?」
「うーん。学校は五月末までだから…」
「後、三か月かぁ。日本に帰るの?」
「どうしたらいいか、分からなくて」
「まだ学びたいことあるんじゃない?」
「学びたいこと?」と私は思わずヘンミンキをの顔を見る。
北欧の人だから身長が高くて、見上げるしかない。
「うん。僕はフィンランドの大学出て、アメリカの大学行って、そこで心理学に興味が出て、フランスで学んでるんだ」
「え? いくつ大学行ったの?」
「今のところ…三つ」
「え? 今のところ?」
「うん。まだ…他にも興味あるから…まだ勉強したいし。フィンランドでは国のサポートが厚くて、望むだけ学生でいることができるんだよ」
「えー? 働かないの?」
「まぁ、いつかは働くけど。僕はまだ勉強したいことがたくさんあって。もちろん日本語も…興味ある。日本に行くのもありだね」
「日本の…大学に?」
「そう」とヘンミンキは言う。
私は驚いて、目を丸くしていた。国が変われば事情も変わるとは言うけれど。
「リリィがフィンランド人だったら、好きなだけ学生になれるのにね」
「…そう…ね」
ヘンミンキと喋りながら地下鉄の乗換駅まで一緒だった。
「じゃあ」と私が下りた時、ヘンミンキも一緒に降りてきた。
「リリィ…。コーヒーでも行かない?」
「あ、今日は…」と日本人的に断ってしまった。
「じゃあ、また時間ある時、教えて」と連絡先を交換することになった。
本当はそれも断ればいいのに、断れなかった。交換が終わって、そこで別れる。そんなことがあったから、スーパーに寄ることすら忘れて、家まで戻ってしまった。
「あ」と思ったが、そのままエレベーターに乗って、部屋に戻る。
スーパーに戻るなら重たい本を置きに帰りたかった。
「ただいま」と言うと、律のピアノが止まって、玄関まで迎えに来てくれる。
それはまるであの頃のようだった。
「律…」と言って、私は自分から抱き着く。
「どうかしたの?」
「どこへ行ったらいいのか分からない」
「え?」
私は本当に駄目なお姉さんだ。律に頼ってばっかりで。
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