第41話 永遠

 私は綺麗に包んでもらったプレゼントを手にして、店の外に出た。すると目の前にすっと止まったタクシーから律が飛び降りてきた。

「莉里」と言いながら抱きしめられる。

 ロンドンの空から雪がちらちらと降って来た。まるで映画みたいだ、とぼんやり思った。

「律…。ごめんね。素敵なプレゼントありがとう。お返ししたくなって。明日はクリスマスだし」

「そんなのいいのに」

「うん…」

 お父さんのお金で買ったものだしプレゼントと言えるのかな、と私は心の中で呟いた。

「でも大分、歩いて来たんだね」

「そうなの。素敵なショーウィンドウを見てたら、ちょっと遠くまできちゃった」

「莉里…。地図に自分の位置情報を表示させて、スクショしてくれたらよかったのに」と律に言われて「あ…」と言った。

「まぁ、タクシーで来たから、どっちでもいいけど」

「ごめんなさい。心配かけて」

「プレゼント、すごく楽しみ。明日開けようかなぁ。あぁ、でも待てないかも」と律が喜んでくれる。

 律だって本当はそのお金がどこから来ているのか分かっているはずだった。それでも私のために喜んでくれる。

「律…」と私は見る。

 遺伝子のせいで恋に落ちたのかもしれない。

 GSAという現象なのかもしれない。

 でも私が好きだという気持ちは嘘じゃないし、そうだったとしても止められなかった。

「私、バイトしようかな。少しは学生ビザでも働けるし」と言うと、律が驚いた。

「何するの?」

「えっと…ベビーシッターとか。日本人の駐在員の子どもの面倒を見るの」

「…へぇ。莉里には向いてそうだね」

「そう。絵本を読んであげたりとか…」と私が言うと律は少し悲しそうな顔をする。

「莉里は子ども好き?」

「え?」

 その質問の意味が何を示しているか分かっている。

「…好きよ。でも別に…どうしてもっていうわけじゃないの」

「ごめんね」

「ううん。律が謝ることじゃない」と私は言いながら、律の肩の上の雪を払った。

「ご飯食べに行こう」と律が私の手を取る。

「明日は雪が積もるかなぁ」と私は空を見上げた。

 暗い空から真っ白な雪が落ちてくるのが不思議だった。


 翌日のコンサートはセントマーティンインザフィールズ教会で行われた。白い円柱が何本も並び、高い天井を支えている。クリスマスイブのランチタイムでいろんな人が演奏をしていて、その中にあのスペインで知り合ったバイオリニストと律が共演することになっていた。バイオリニストの方がすでに有名なので二人が出てきた時「だれだ? あのアジア人は?」みたいな声がちらほら聞こえた。

 フランクのバイオリンソナタだったが、何だか聴いたことがあるようなないようなそんな曲だった。

 でも私は二人の演奏を聞いて驚いた。ピアノとバイオリンが会話しているのがはっきりわかる。それだけじゃない。音が溶け合って、広がる。天井の高い石造りの教会は音が響いた。二人の楽器による交流がとても綺麗だった。

 きっと音が溶け合うのは本当に気持ちがいいだろう、と私は思う。音楽同士でつながるというのは恋愛とは違うけれど、また深くつながりがあるのだ、と思った。

 美しい二人の旋律のせいで胸が苦しくなる。

(…嫉妬だ)と私は思った。

 彼女だけじゃない。これからたくさんの人と律は共演をするだろう。その度に私はみじめで苦しい気持ちになる。

 曲が終わるまでこんなに素直に応援できない自分が嫌で仕方がなかった。律を応援したいと言っていたくせに…。綺麗なバイオリニストとの共演でこんなにも嫌な気持ちになってしまう。

 好きだから苦しい。

 醜い気持ちも芽生えてくる。その気持ちに目を逸らそうと瞼を閉じた。


 周りから歓声が上がって、曲が終わったのだと知った。私は自分の裡に広がる黒い靄が怖くて、拍手をしながら震えた。

 バイオリニストがピアノに手をかけてお辞儀をする。律もお辞儀をして、そしてまた着席をした。

 優しい旋律が流れ出す。

 悲愴第二楽章だ。

 語りかけるように音が紡がれていく。


 静かな教会に律のピアノが響いた。

「莉里を思って弾くから」

 この曲が約束の曲のように聞こえる。

「ずっと変わらず」 

 柔らかく音が上に登っていく。

「愛してる」 

 私の黒い靄は律の大きな愛の中で消えた。


 そして一瞬の静寂の後、割れんばかりの拍手が教会の中に響く。何人かは立ち上がっていた。律はお辞儀をして、そして退場していった。

 今回のコンサートは無料で、教会へ募金ボックスを置いてある。私もそこへお金を入れる。そして入り口から出て、私は外で律を待つことにした。

 曇り空はまた雪を降らしそうに重たい色をしている。

 嫉妬したり、ドキドキしたり、悲しくなったり、泣きたくなったり、私は初めての経験だった。家では一人で過ごしていたし、学校生活も表面上は上手くやっているつもりだったけれど、少し距離を置いていた。

 

 正直、自分に戸惑いを覚える。

 律がこちらに向かう間に、いろんな人に話しかけられているのを遠くから見る。

 姉としてサポートしてあげた方がきっといい。そうすればお父さんも資金援助を続けてくれるだろう。

 今のように律は自由にいろんな人といろんな場所で演奏をして、みんなが憧れるピアニストになれる。

 そう分かっているのに、私は自分の欲深さが恐ろしくなる。 

 遠くにいる律が私に気が付いて、微笑んだ。

 この距離ならきっと気が付かない。私も微笑み返して、少し涙を零した。 

 共演したバイオリニストが後から出て、律にフランス式の頬を合わせる挨拶をして、去っていった。

 律が少し気まずそうな顔をしている。

 挨拶の間に私は涙を拭けた。

 いろんな人から解放された律が走って私のところに来る。

「莉里…。お待たせ。スコーン食べに行こう」

「律。すごく素敵だった。バイオリンとの共演も」

「あ、うん。なんか、さっき…」

「嫉妬するぐらい素敵だった」と冗談っぽく言った。

「莉里…。じゃあ、もう誰とも弾かない」

「律、それはダメ」と言って、律の手を取った。

 嫉妬したのも本当。でも誰より成功を祈ってるのも本当だから。

「一緒に暮らすために頑張らなきゃ」

「…うん」

 重たい空からこらえきれないように雪が落ちてきた。

 その日、私たちは二人きりでクリスマスを過ごした。

「日本式だね」

「だって、日本人だし」

 律はサファイアブルーのマフラーを喜んでくれたし、私に小さなダイアのついたネックレスをくれた。律は自分が夏に働いた分で払ってるから、と言う。

 ケーキをホテルの部屋で食べて、窓の外を見ると雪がどんどん振り続けている。


「教会のミサは寒いだろうね」と私が呟くと、律が後ろから抱きしめてきた。

「莉里…」

 息が耳にかかる。私の耳が治ったからお父さんは連れ戻しに来るだろうか。そんなことをふと思って、私は律にキスをした。

 愛し愛され幸せなのに、どこか胸が痛い。

 ベッドの中で律の体温と重みを感じながら、どうしても永遠を信じられなかった。

 それは予感だったかもしれない。

 そしてそれは私の希望だったかもしれなかった。

 でも今は動けなかった。この甘い温かさの中で溶けることしかできない。

「律…。ずっと愛してる」

 繰り返し言って、降り続ける雪のように積もって欲しかった。

「俺の方が…」

 そう思って、でも雪は解けてなくなる、とも思った。

「愛してる」

 律の声を聴きながら、温かくなるのに涙も零れた。

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