第39話 恋の終わり

 律が「レッスン終わったから、来て」とメッセージを送ってくれた。私は一着しか持ってこなかったかわいいワンピースをコートの下に着て出かける。

「三十分くらいかかるけど、大丈夫?」と聞くと「準備がかかるから全然大丈夫」と返事が来た。

 ご飯を作ってくれるらしい。ピアノの先生はご飯を作るのも好きなようで、いつも律を引き留めて晩御飯を一緒にしようと言う。近頃、律はそれを断ってばかりいて、ついに理由を聞かれた。そして私のことを話したらしい。どういう風に、どこまで話したのか分からないけれど、とりあえず一度会いたいと言われたようだった。私は手土産にチョコレートを買って、地下鉄に乗り込んだ。


 メトロは暗い雰囲気だが、あまり治安の悪さを感じない。一号線は観光客も多いので、乗る時は少し気を張っておくが、今日は使わなかった。先生の家は右岸にあって、パッシーと呼ばれる高級住宅地にある。そんなところに用事がないから、私は降りたことのない駅だった。ただこの駅に向かうメトロは地上を上がり、セーヌ川を渡る。その時のメトロ駅から見えるセーヌ川の風景は朝も昼も夜も美しかった。パリを一眼できると言っても差し支えないくらい美しい景色が見える。

 私は窓からじっと眺めた。この景色も流れていってしまうのが惜しい。

 律に言われた住所に向かおうとしたら、出口で律が待っていた。

「律…。迎えに来てくれたの」

「うん。暇だからね」

「お土産、チョコレートにしたけど、大丈夫かな」

「いいよ。ありがとう」と言って手を取られた。


 街は落ち着いた風景で高級住宅地らしく静かな夜だった。歩いている人も身なりが良く、ご年配の女性が真っ青なコートを着こなしていた。

「私のこと、どう説明してるの?」

「異母姉弟って言ってる。それと…愛してることも」

「え?」

「先生には隠せなかった」

「そっか」

 少し怖くなって、震えた。

「大丈夫だから」

「うん」


 家は大きな門を開けて、中庭に出る。そこからエレベーターで上がると、ワンフロアに一つだけの扉があった。律がドアをノックすると、扉は開かれて、白髪の婦人が現れた。

「いらっしゃい」

「お招きくださってありがとうございます」と私は頭を下げた。

 かなり年配の先生らしく皺が顔にも手にも刻まれている。エレーヌと呼んで、と自己紹介される。

「どうぞ」と言われて、部屋の中に入った。

 大きな暖炉があって、絨毯もふかふかで歩き心地が全く違う。壁にはどこかの田園風景が描かれた絵がかけられていた。

 ダイニングに置かれた大きなテーブルの上にまるでホテルのレストランのようにカトラリーが並べられている。私はチョコレートの箱を渡した。

「いつも律がお世話になっております」

「あらあら。ご親切に。ありがとう」と言って、チョコレートはキッチンに持って行かれた。

 座るように促されて、私は律の隣に座った。もう一人、エレーヌ先生より十歳くらい若い女性が彼女の隣に座る。その人はコレットと言った。音楽院に教えに行っているらしい。

「律は最近、ご飯を食べずに帰るから淋しくて。聞いたら、恋人ができたって」とエレーヌ先生はちょっと恨みがましく言った。

 律は気に入られているようで、少しほっとした。

「フランスに来た当初は律をここで預かっていたの。でも家を出るって言うから…」と不服そうな声だった。

「それで。あなた方は姉弟って聞いたけど?」と私を見た。

「はい。異母姉弟です」

 大げさにため息を吐かれる。

「ややこしい関係ね」とエレーヌ先生が言うから、律は「別にそんなに難しくないです」と言い返した。

「フランス人がいくら恋愛に鷹揚だとは言っても。…とは言え、律が好きになるのは分かりますけどね」

「え?」と律が訊き返した。

「あなたが駅まで出迎えに行くなんてよっぽどです」とコレット先生が言う。

「そう。私の時は来なかったでしょう?」とエレーヌ先生がまた恨めしそうな声で言った。

「それは練習しておいた方がいいかと思って」

「おかげで私が重い荷物を運んだんですからね」とコレット先生が言った。

「まぁ、愛っていうのは、ままならないものですからね」とエレーヌ先生がため息をついた。

「エレーヌ先生も大恋愛してましたもんね」とコレット先生が事情を知っているように言う。

「まぁ、忘れられない恋になったけど。さぁ、ご飯を食べましょう」

 そう言って、前菜から始まった。柿に生ハムが乗っている。

「柿は日本の果物でしょ? だから用意したの」とエレーヌ先生が言う。

「柿、売ってるんですか?」

「売ってるわよ」とコレット先生も言う。

 食事をしながらフランス人は良く喋るので前菜に三十分は十分にかかる。エレーヌ先生は若い頃は恋多き女性でいろんな人と付き合ったと言う。有名な作曲家とも付き合ったらしい。一番愛してたのは三十代の時に付き合ったチェリストだと言う。

「でも…彼には恋人がいて、私は二番目だった。最初はね」と言って、思い出すようにどこか宙を見て微笑んだ。

 美しい美貌と、そして卓越したピアノの演奏によって、彼の心を勝ち取ったと言う。

「幸せだった。一緒に演奏している時は何より美しい時間だった」と思い出しているかのように瞼を閉じた。

「誰よりも彼のことを私が一番分かっていると思っていた」

 ところが彼の元恋人が自殺を図った。幸い一命をとりとめたが、声楽家だった彼女は声を失った。

「それで、ダメになったのよ。いろんな人がいろんなことを言って。どんなにお互い好きでも…一緒にはいられなかった。私はそんなの気にしないって思ってた。でもあの人が段々ダメになるのを見るのが辛くて…」

 エレーヌ先生は私たちに何かを伝えたいのだろうか。

 ふと律が私の手を握った。

「俺は莉里がピアノ弾けなくても、何ができなくても側にいたいから。どんなにダメになっても絶対に離れません」

 コレット先生が口笛を吹いた。

「あら。まぁ、まだ律は若いから」とエレーヌ先生は大げさに肩を竦めた。

 律がそう言ってくれた言葉がじわじわと体を温かくする。今までずっと一人だった。お父さんもお母さんも私を見てはくれなかった。もちろんネグレストというほどひどいものではない。衣食住、その他、十分にしてもらったとは思っている。でも二人とも私がいなければよかったと思う瞬間はあったはずだ。もし私がいなければ、とっくに離婚してそれぞれ違う方向へ歩いていたはずだ。律にしたって、私がいなければ、お父さんは律のお母さんと再婚できたはずだった。

 ――私なんていなければ良かった。

 そんなことを思うことは二度、三度ではなかった。ここから自己肯定感が低いのだけど。

 そんな私にさっきの律の言葉は飢えた私の心を隅々まで浸してくれた。

 きっと私は律より淋しかったかもしれない。年下の男の子が家に来て嬉しかったのは本当だけど、愛し愛される対象が側にいることが一番嬉しかった。「莉里…」

 律が私の顔をナプキンで押さえる。涙が音もなく流れていた。


 長い夕飯が終わってお暇したのは夜の十時を過ぎていた。

「食事ってこんなに体力使ったかな」と私はため息を吐く。


「うん。だから早めに部屋を探して出たんだよ。すぐに練習したいし…」と律は心底、疲れた声で言う。

「毎晩、毎晩、夕飯に時間取るってすごいよね。そんなに喋ることがあるのがすごい」

「…うーん。そうだよね。でも喋らないでご飯を食べなさいって言ったら、多分、すごく苦痛なんだろうね」

 真面目に律が言うから私は笑った。

「牛丼屋さんを出しても流行らないかもね」と私も笑った。

「美味しいけどね。あー、しばらく食べてないなー。薄切り肉の牛丼」と律も言う。

「こっちのお肉はやっぱり固いし、そもそも薄切り肉を手に入れるのが大変」

 しばらくそんな話をしていると、律が「結構、しょうもないこと、話してる」と言った。

「あ、本当だ。じゃあ、あと半年もしたら、二時間夕食が普通になるかも」

「莉里とだったら、何時間でもいいけど」

「その内、喋ることなくなるかな? ねぇ。クリスマスって律はどうするの?」

「えー? クリスマス。あ、イギリスに行くことになったんだよ」

「そうなんだ」

 私は独りぼっちかぁ、とちょっと落ち込んだ。

「一緒に行く?」

「え? いいの?」

「いいよ。別に。向こうのクリスマスってどうなんだろうね」と律は言った。

「でもコンサートでしょ?」

「うん。昼間に教会で。あのスペインで知り合ったバイオリンの子と一緒にするんだ。夜はみんなミサに出るからさ」

「律…。私に何の才能がなくても本当に好きでいてくれるの?」

「才能、あるよ。語学とか」

「それは…努力だもん」

 そんなくだらない話をしながら、地下鉄の入り口まで歩く。帰りもあの素敵な風景を地下鉄の窓から律を一緒に見れるのを楽しみにしながら。

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