第38話

失った約束


 マシューが朝からいて、私はバタバタしていたから、しっぽを踏まないようにと律がソファの上にあげた。学校に行く時間が迫っていたから、私は正直、マシューに構っていられなかった。


「莉里…。今日、夜はいないから」


「分かった」


「ちゃんと戸締りして」


「はい。行ってきまーす」と言って、慌てて出かけた。


「莉里」とエレベーターの前まで律が追いかけてくる。


「何?」


「莉里も来る? ピアノの先生の家」


「え? でも…」と言ってると頬にキスをされて「考えといて」と言われた。


 エレベーターが上がってきたから「また後で」と言って、乗り込んだ。


 律がキスしてくれた頬が気になって、手で押さえる。律なら少しも嫌な気持ちにならないのに、と私は不思議だった。


 学校に行くと、さっそく律のファンだという子に手紙を渡された。


「これ、渡してください」


「あ、はい」とそのまま受け取る。


 中は何て書いてあるのか気になったけれど、そのまま鞄にしまった。それを見ていた同じクラスの日本人に「大変ね」と言われた。


 彼女は松田さんと言って、大学院を出てからフランス留学をしていると言う。


「サガンが好きで。フランス文学って感じがするじゃない?」と私に話した。


 ちょっとそういうところは私と似ている。フランスっぽいというお洒落で、少し退廃的でそういうものが大好きらしい。


「そんなに弟は有名だったんだって…思いました」


「え? 知らなかったの? この間、日本でコンサートして、テレビにも出てたわよ。それからじゃない? ビジュアルもいいし」


「…律がテレビに?」


「本当に姉弟なの?」


「あ…。あんまりそういうこと教えてくれなくて」


「まぁ、お姉ちゃんに自慢なんかしないか」と松田さんは軽く流した。


 手術のことばかり頭にあって、日本でコンサートしただけだと思ってた。


「だから、にわかファンだと思うよ? たまたまフランスにいるから、うまく行けばお友達になろうって魂胆じゃない?」


 松田さんは肩を竦めた。


「でも弟と住むのって、どう? 面倒じゃない?」


「あ、よくしてくれて」


「なに、それ?」と松田さんは噴き出した。


 普通の姉弟はどういう感じなんだろう。


「ピアニストの母を持つってテレビで紹介されてたから、あなたもピアノ弾けるの?」


「あ、私は…違ってて」


「まぁ、姉弟でも才能は違うわよね」


 才能だけじゃなくて、母も違うというのはなんとなく言いにくかった。


「…松田さんはご兄弟いらっしゃるんですか?」


「うちはお兄ちゃん。仲良くないよー。小さい頃はいじめられたし」と松田さんのお兄ちゃんの話を聞くことになって、話題が変わってほっとした。


 一つ一つが嘘じゃない嘘になって苦しく感じる。




 結局、私は律のピアノの先生のお宅にお邪魔することになった。律のレッスンが終わる頃に向かうことにする。それまで大分と時間があったから、課題をこなそうと思っていると、ブザーが鳴った。玄関に出るとアルビンが立っていた。


「ごめん。遅くなって。これ」と渡してくれたのはいつか話していたジンジャークッキーのオレンジ味だった。


「わ。ありがとうございます」と私は素直に受け取った。


「時間ある? お茶でもしない?」とアルビンが言うので、私はアルビンの部屋にお邪魔した。


 律儀にドアを開けてくれているので、疑うことはしなかった。


「インド産の紅茶でいい?」と聞いてくれるので、私は頷いた。


 アルビンはずっと一人で住んでいるのだろうか、と部屋を見回した。家族写真のようなものがあった。アルビンの小さな頃だろうか。


「それ…僕の息子なんだ」


「え?」


 アルビンに似た男の子が微笑んでいる。でも今、一緒に暮らしていないということは…と私は何も言えなくなる。


「事故で亡くなったんだ。僕たちはどこにでもある夫婦で幸せで、でも喧嘩も多くて、すぐに仲直りして、そんな毎日の繰り返しだった」


 ドライアップルが入れられた紅茶が運ばれてくる。リンゴの匂いが立った。


「だからまさか、突然、事故で二人が亡くなるなんて思いもしなかった。永遠に続くと思ってた。だから喧嘩も何度もしたし、ちょっと愛情薄れたんじゃないかってお互い日々の忙しさでそんなことを言い合ったりしてた。愛は側にあると不思議と見えなくなってしまうんだよね。努力しないとその存在を忘れてしまう。あんなに焦がれたのにね。人間って適応力が高すぎて、どんなものにも慣れてしまうんだよ」


 私の目を見て言う。


「それなのに、失ってから、本当にばかみたいに毎日後悔するんだ。本当にばかみたいに」


 アルビンは今でも後悔しているのだろう。両手をぎゅっと合わせていた。


「アルビンが…優しいのはそんな悲しい経験をしたから…」


「そうかもしれないね」と微笑んでくれた。


 こんな壮絶な経験をしている人に私はどんな言葉をかけていいのか分からない。


「どっちにしろ二人が教えてくれたのは永遠に思えるものも、そうじゃないってことなんだ。いつかは分からないが時間は有限だ。だから…意識して、もっと愛せればよかったって…」


 リンゴの匂いの紅茶は温かくて、心を落ち着かせてくれた。


「でも…きっとアルビンは…ちゃんと愛せてたと思います。こうして今でも優しいし…。あんなに賑やかにフェットができるくらい人が集まるんだから」


「あぁ、ごめん。うるさかったかな」と言うので「少し」と言って笑う。


 そしてアルビンは思い出したかのように言った。


「ヘンミンキって覚えてる? マシューを受け取りに来たフィンランド人」


「はい」


「彼が君に興味があるって。日本語を教えて欲しいというのと…。それ以上の感情があるのかな? それは本人は言ってないけど」


「え…。私…友達として日本語を教えるのはいいですけど、でも…それ以上の感情はどうしても…」と言った。


「まぁ、無理なら恋人がいるって言っておくよ」


「すみません。あの…私、男性が苦手みたいで」と言うと、アルビンは驚いた。


 蛙化現象という言葉の英語をスマホで調べてみる。そして自分の経験を話しながら、何が原因か自分でも知りたかった。


「それは…自己肯定感が低い…。幼い頃に信頼関係を築かなければならない時に何かが欠如したとか…。異性に対する期待が高いとか…」とアルビンに言われることが悉く当たっていた。


 私は思わず首を縦に振った。


「でも一番は…愛情に対する信頼感を持てない…。君がどういう環境で育ったのかは分からないけれど、十分な愛情を受けて、それを信頼できるような環境ではなかったのかな」


 そう言われて、すとんと納得できた。両親からの愛情不足に加えて、両親たちはお互いを愛し合ってはいなかった。愛と言うものを見たことがない気がした。そんな中、唯一、愛情を注げて、応えてくれたのが律だった。

 だから律には嫌悪感が沸かないんだ、と初めて納得できた。律が唯一の愛情…の源だった。多分、律もそうだ。


「アルビン…。私は愛が何か分からないけれど、今あるものを大切にしようと思う」と言った。


「そうだね。僕はね。できるだけ、どんな他人にも優しくしたいって思ってるんだ。それが亡くなった家族への償いのような、使命のような約束だ」


 冷えてしまった紅茶を静かに飲んで、私はお暇した。アルビンの部屋は世界中の置物で飾られている。いろんなところに旅をして、何を探しているんだろう、と思うと切なくなった。

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