第37話

転科の理由


 小さなレストランを貸し切って、新酒のパーティが始まった。そのオーナーの地方での新酒が取れたお祭りがであるらしいけれど、レストランでもお祝いをするとのことで、音楽院の知り合いが誘われて、演奏したり歌ったり、食べたりと楽しく過ごすことになった。音楽院の人も多いけれど、一般の地方お客さんもいて、何だかみんな楽しそうだ。律もピアノを弾いていた。アップライトのピアノでジャズを則子さんと演奏していた。


 音楽院のメンバーは演奏する度にチップがもらえて、いい稼ぎになりそうだった。私はワインを飲みながら、ソシソンセックというサラミを食べていた。すると横に緑ちゃんが座り込んできた。


「お姉さん」


「はい?」


「律君の彼女って知ってますか?」


「え?」


「なんか、私だけじゃなくて、関係のあった人全員と切ったみたいで」


「…あ、そう…なんだ」


 まだ律にこだわっているのが不思議だった。立派な婚約者もいると言うのに、と私は首を傾げた。それで私の言わんとしてることが分かったのか、緑ちゃんは慌てて説明し始めた。


「婚約者は…それはいい人だし、条件もいいけど…。やっぱり律君が良くて」


「え? じゃあ、結婚は…」


「結婚はします。だって、パパが売れない音楽家なんて売れない芸人と同じようなもんだって。だからフランスにいる間だけ恋人でいたいんです」


 律のことを何だと思ってるんだろう、と腹が立ったが、律もそれなりに遊んだりしていたから、怒ることもできないでいると、バイオリニストの杏ちゃんがやって来て、私と緑ちゃんの間に無理やり座った。


「お姉さん、飲んでますかー」とご機嫌で私のグラスにワインを注いで「かんぱーい」と言ってくる。


「私、花嫁修業にお邪魔してもいいですか? 一度も律君の部屋に行ったことなくて」と言う。


 すると緑ちゃんもぐいっと入ってきて「私、料理できますよ」と言ってきた。

 返答に困って、手にしたワイングラスをぐいっと飲み干した。


「一度、お伺いしたいですー」と杏ちゃんはさらにぐいぐいとくる。


 断れないし、困ったな、と思っていると、律が私の肩を叩いて席を譲るように言う。


「俺、プライベートに入られるの嫌なんだって言ったよね?」


 私は律に席を譲ると、ワインの酔いがほろほろやってきた。


「俺のことで莉里に付け入ろうとするの、ほんと、うざいんだけど」


 ひどいことを言ってると思ったけれど、私がたしなめるのもなんだか違うような気がして、黙って俯いた。


「えー。だって…」と杏ちゃんが言い返そうとする横で緑ちゃんはしおらしく涙を浮かべていた。


「俺、今、好きな人と一緒にいるから」


 その瞬間、場が凍った。私は律がまさかこの場で言い出すなんて思いもしなくて、ほろ酔いが覚めてしまった。


「誰? 誰?」と杏ちゃんが食い下がり、緑ちゃんは「お姉さん、知ってたんですか?」と誤解していた。


「意地悪されるから言いたくない」と律は言って、私に「則子さんが呼んでた」と言う。


 私は揉めている三人を置いて、則子さんを探した。則子さんは入り口で、年配のフランス人女性と話をしていた。


「あ、莉里さん」と則子さんがそのフランス人女性に私を紹介する。


「はじめまして」と私が言うと、その人はイリスという名前で則子のパートナーだと言う。


「え?」と一瞬、聞き返してしまったが、則子さんは気にせず笑いながら「パートナー…恋人ってこと」と言った。


「そう…ですか」


「別に女性が好きっていうわけじゃないの。イリスだから好きなだけ」と則子さんは言った。


 イリスさんは前に行ったジャズのカフェを経営しているらしい。彼女も昔、ピアノを弾いていたと言う。


「自分が…規格外の恋愛をしているからかもしれないけど、律君のこと…分かるような気がする」と則子さんが言った。


 私は律の方を見ると、まだ二人とやり合っていそうだった。


「律が…好きな人と一緒にいるって言ってしまって」


「我慢できなかったのね。でも…言わない方がいい気はするけどね」と則子さんはグラスを飲み干した。


 イリスは黙って横に立っている。


「面倒臭いのよ。この世界は。私はいろんなことから抜けたくて、ピアノもやめて…。でも…完全に抜けきれない。イリスがいなかったら、壊れてたと思う」と言って、イリスの肩にもたれかかった。


 イリスが則子さんの髪を優しく撫でた。まるで傷をいたわるように。でももし則子さんが傷を持っていなかったら、と私はふと思ってしまった。もしも全てが順調だったら、相手はイリスさんじゃなかったのかもしれない。そんなことを思うと、もし私が健全な家庭で、律も他人だったとしたら、私だって、あの二人のように律を独占したい

と思う一人だったかもしれない。

 あの環境が恋に落ちさせたと言うなら、真の愛ってなんだろうと思ってしまう。


「りり? 考え込まなくていいわ」とイリスさんに言われた。


「え?」


「状況は…変わっていくものなのよ」


 その言葉が不思議と真実味を帯びていて、だからこそ怖かった。


「だから今を楽しんで」


 則子さんは空になったグラスが淋しかったのか、ワインをお代わりしに行った。


「え?」


「今という瞬間はこうしている間に過去になるから。人は後悔せずにはいられない生き物だけど、それでも今を楽しむことが一番の道筋になると思うの」


 イリスさんのグレーの瞳は私をしっかり見ていた。


「私…」


「いいのよ。人はただ生きて、思い出を作るだけなんだから」


 思い出になる日がいつか来るのだろうか。


「たまに綺麗な思い出をいくつか懐かしみながら、そして彼女と今いるの。明日はどうなってるか、一週間後はどうなるのか、一年後はどうなるのかそんな心配しても意味がないことよ」と言うイリスのフランス語はカジュアルではなくて、上品な話し方だった。


 身分制度があったフランスではいまだにその振る舞い、衣服、そして言葉でクラス感を感じることがある。イリスは上流階級の育ちのようだった。


 則子さんがワインボトルを手に戻ってきた。


「飲みましょ。新酒って熟成されてないから…酸っぱいわねぇ」


「フルーティって言いなさい」


 二人の言い合いを見ていると、私は何だかすべてが許されるような気持ちになった。私のグラスにも新酒が注がれる。


「今年もこうして一緒にいれたことに乾杯」と則子さんは言った。


「サンテ」


 お互いに穏やかな笑顔を見せながら、なんだか温かい気持ちになった。



 帰り道、律に注意された。やっぱり私は飲み過ぎたようだった。しかもあまり食べずに飲んだから余計にふらついている。


「律…なんか、食べたい」


「なんで食べてないの」


「タイミングが…」


 深夜でも開いている通称アラブ屋さんに近寄る。アラブ系の人がやっている雑貨店で、夜遅くまでお店を開けてくれていて、割高ではあるが、何でも置いている。果物も洗剤、食品、日用品あれこれ。私はアイスを手にする。


「莉里、果物も買うよ」


「後、ハムとチーズと…ジュースも」


 割高なのに、酔っているせいでうっかりたくさん買ってしまう。


 アラブ屋のおじさんはいかめしい顔で買ったものを袋に入れてくれるが、会計後に、消費期限が近い私の好きなチョコレートの入ったパンを一つ袋に入れてくれた。


「わ。ありがとうございます」と言って、私は受け取る。


「莉里…ほんと、お酒に弱いんだから」と律が手を引いてくれた。


 お酒に弱いけど、私は今日は来てよかったと思った。


「あの後…どうなったの? 律があんなこと言うから驚いちゃった」


「…うん。言わなくてよかったのにって後悔した。あの後、すごく大変で…。一体、俺のどこがいいんだか」と律はため息を吐く。


「それは…ピアノ上手だし、かっこいいし…優しいし…」


「優しいのは莉里にだけ…で」


 アイス食べようと、がさがさと袋を探る。棒アイスでバニラをチョコレートでコーティングしている。


「莉里? 寒くないの?」


「あ、ちょっと寒いけど…なんか食べたくて」


 律が笑う。冷たいアイスを開けると、確かに冷たいんだけど、口に入れると甘さが心地よく広がった。


「律…。則子さんって…何かあったの?」


「え?」


「音楽院で…何かあったのかなって」


 アイスを食べていると、さすがにちょっと寒くなってきた。


「何か聞いた?」


「なんだか辛いことがあったみたいな感じだったから。それでピアノ…辞めちゃった気がして」


「う…ん。先生と恋愛関係になって…」


「それで?」


「それですごく上達したんだけど、いろいろ嫉妬されて。それに…先生は既婚者だったから」


「え?」


「奥さんに告げ口されて…」


 そんなことがあったとは知らなかった。


「彼女のピアノ、良かったのにな。もったいないって」


 私はアイスを食べる手を止めた。

 もし私たちの関係が表に出て、律のピアノに影響しないだろうか、と不安になった。


「律? 大丈夫かな?」


「何が?」


「私たちのこと…。ばれたら…律の」


「ばれないようにする。それに…そんなことで駄目になんかならないよ。莉里のためにも」


「だから、もう変なこと言わないでね」


「うん。分かった」


 私はアイスを食べて、完全に冷えたお腹が心配になってきた。律はそれが分かったのか、アイスを取り上げて、袋にしまった。


「あ…」


「また明日、食べたら?」


「うん」


 冷えた手を握ってくれる。今を生きなければ、と思いながらも私はどこか不安を拭うことができなかった。

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