第35話
毒でも愛でも
いい事なのか、悪い事なのか、判断はつかないけれど、今、私にはホテル以外の部屋がないことだけははっきり分かる。
この突発性難聴のおかげで即刻帰国は免れた。しばらくはまだここにいることが決まったのだから、居場所を探さなくてはいけない。
「律の…部屋に帰ってもいいの?」
スマホの画面に
「莉里にずっと側にいて欲しい」と文字が浮かびあがる。
私はホテルをチェックアウトすることを決めた。
「律、チャーハンいる?」と訊いたら、律が柔らかく笑った。
その笑顔は本当にずるい。小皿に入れて、目の前に置くと、それをスプーンですくって、私の口に差し出した。
私はスプーンを口に入れる。
律がくれるものなら、何でも食べていい。それが毒でも愛でも何でもいい。罰でもご褒美でもどっちでもいい。
一緒にいられるのなら…と律を見ると、律の目からまた涙が零れていた。
「ありがとう」と私に食べさせてくれた律が言うから、私は笑った。
チャーハンはシンプルな塩味で、昔私が作ったような味だった。
「律も食べて」と私は促すと、律も「莉里が昔作ってくれた味とそっくり」とスマホに送ってくれた。
「懐かしい」と笑いながら、二人で食べた。
律も食べ始めたので、もう一品何か追加しようかと言うと「莉里が食べたいものでいい」とメニューを渡してくれた。
そうしてホテルをチェックアウトして、私はまた律の部屋に戻って来た。でも律はソファベッドに寝ると言う。
「どうして?」
「それは…」
「嫌じゃないよ。私、全然、律のこと、嫌いになれない」
「莉里は…どうして…そんなに優しいの?」
「たった…二人きりの姉弟じゃない」
二人とも親から愛情をもらえず、一緒にいた。あの時の律は私にとって愛を与える存在として大きかった。
「莉里…。ごめん」とまた謝る。
「もう。謝るんだったら、しなきゃいいのに。でも気持ちは分かる。お父さん、少しは苦しくなったのかな?」
「いいの? 莉里は」
「いいって。お父さんがやったことだから。律だって本当はもっと怒っていいと思うよ」
「…莉里。復讐はもう辞める」
「え? どうして?」
「あの人に莉里と離れるように言われたんだけど、もちろん納得できなくて」
「え?」
「留学援助もストップしてもいいからって」と言って、唇を噛んだ。
悔しそうな表情を見て、私は律が何をしたのか分かった。
「律…もしかして…頭下げたの?」
律がお父さんにそんなことするなんて相当なことだ、だから、お父さんが病院であんなことを言ったのは納得できた。律は返事をしなかったけれど、私は「もう」と軽く律の胸を叩いた。
「そんなこと簡単に言わないの。律のピアノはもっともっとこれからもっとすごくなるんだから」と言うと、律が笑った。
「もっとすごく?」
「そう。なんて言ったらいいか分からないけれど。すごく有名な賞を獲るとか…」と私がピアノについて詳しくないから、どうなったらすごいのか具体的には分からない。
「いいよ。ピアノは。莉里が側にいてくれたら、ホテルのロビーで演奏させてもらう」
「じゃあ、私は…えっと。フランス料理で店員でもする」
「莉里が?」
「そう。料理を運ぶくらいはできるでしょう?」
「落としそうだよ」
「もう」と言うと、ふわっと抱きしめられた。
律の匂い。心地よくて私は目を閉じた。
そして律がホテルでピアノを弾くのなら、二人とも夜に働くように私は夜の塾講師になろうかな、と考えた。
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