第34話

憎しみと愛と


 黙って手を引く律はずっと入り口で待ってくれていたのだろうか。


「律…。長いこと待ってた?」


 私を見て、目を細めて首を横に振る。律が予約してくれたのだから、場所も時間も分かっているが、診察がどれくらいになるか分からない。きっとずっと待ってくれていた。

 バス停で市内に向かうバスを二人で無言で待つ。 

 バスに乗って、パリ市内に着くと、律は私を薬局に連れて行ってくれて、薬を購入して、渡してくれる。そしてタクシーでホテルまで送ってくれた。律もタクシーから降りて付き添ってくれるのには驚いたけれど、私がそのままホテルに入ろうとすると、手を握られた。


「どうしたの?」と聞いてみると、律は何も言わずに私を見る。


 私は耳が聞こえなくなって、律は口がきけなくなったのだろうか。


「ごめんなら、もうたくさん聞いたよ」


 律がどんな思いで成長したのかと思うと、私は罰を与えられても仕方がない気がした。

 律のお母さんは子育てをせずにピアノと恋愛に時間を割いていた。その相手が私のお父さんなのだから、律がお父さんと私を憎く思うのも分かる。


「本当に怒ってないから」と私は微笑んでみる。


 律は悲しそうな顔で私を見た。


 ホテルの入り口では邪魔になりそうだったので、一旦、ホテルの外に出る。


「律。気が済むまで復讐していいよ」


 どうしたことか、律は本当に何も話さず、私の手を握っている。


「…お腹空いた?」


 昼を食べてから、結構時間が経っていたから私もお腹が少し空いている。


「それとも…喉が渇いてる? だから喋らないの?」


 掴んでいる律の手を離そうともう片方の手で指を開こうとしてみたけれど、ピアニストの握力にはかなわなかった。


「律…。痛いよ」


 そう言っても離してくれそうになかった。


「私、本当に怒ってないよ。分かる?」


 ようやく律は首を横に振った。


「律の気持ち、分かるから。それと…優しくしてくれたから。本当に幸せだった。たとえ、律がどういう理由でしていたとしても、律が私に優しくしてくれたことは事実で…嬉しかったから」


 律の瞳が揺れて、涙が淵からあふれる。

 私は初めて律が泣いたのを見た。溢れた涙はすっと一筋落ちていった。


(あぁ、綺麗でかわいそうな弟…。私のために涙を流すなんて)と私は指でそっとその涙に触れた。


「じゃあ、ご飯、食べに行こう?」と私は慰めるように言った。


「どうして?」とようやく律が言葉を発した。


「お腹空いたの…。それに薬も飲まないと」と律が買ってくれた薬の袋を持ち上げて見せる。


 律が頷いて、私の手を引いたまま、すぐ近くにあった中華料理のお店に入って行った。


 持ち帰りもできるのかショーケースには美味しそうなおかずが並んでいる。律は中に黙って入ると指を二本立てた。お店の人がテーブルを指さすのでそこに座った。


 私はメニューを開いて


「何食べる?」と聞いてみたが、律は黙って首を横に振った。


 チャーハンとラビオリと書かれた餃子を選ぶ。他にも美味しそうなものがあったが、律が食べないなら、食べきれないだろうと控えめに注文した。

 店主も中にいるお客も中国語で会話している。


「…律。どうしたらいい?」と私が聞くと、スマホを取り出した。


 律がスマホを口に当てて、何か言ってる。すぐに私のスマホが振動した。律からのメッセージが届いていた。


「ごめん」と書かれている。


「もう本当にいいのに」と私は言った。


 すぐにまた律がスマホに何か言う。


「莉里、愛してる」とメッセージが届いた。


 私は驚いて顔を見る。


「え? どういう…こと?」


 視線を落として、律はため息を吐いた。


「莉里を復讐に利用したのは本当」とメッセージが届く。


 ずっと律はスマホに何かを話し続けていた。

 

 律は自分の世話をしない母親が亡くなって、祖父母に預けられるのだろうと思っていたら、引き取られて知らない家に連れて来られて驚いた。

 そこには冷たい視線の女性と、父親《あの人》と、そして私がいた。歓迎されてないことは分かっていたから、祖父母の家に帰りたかったが、祖父母からも断られたと聞いて、仕方なくそこにいた、とメッセージに書かれている。


(本当にかわいそうな律…)


 そう。あの頃、私の母と父親は完全に関係が壊れていて、どちらもほとんど家におらず、冷たいおかずが並ぶテーブルを私と律は二人で囲んだ。でも律が来てから、それではいけないと思った私はお味噌汁を作ったり、インスタントのスープを用意した。

 温かいものを二人で飲んで、何だかほっとしたことを今でも思い出す。



 律がスマホに呟いて、メッセージで送ってくれる。


『初めて心から安心できる人が莉里だった。それと…いつの間にか惹かれてた』


 律は自分でもまずいと思っていたが、ある日、お父さんから「莉里から離れて欲しい」と言われて、私に気持ちが伝わる前にフランスに行くこことを決めたらしい。


 お父さんが私にはかろうじて愛情があるのを知った律は私をどうにかすれば、復讐できると考えがよぎったが、結局、そんなことをせずにフランスに来たと言う。そこで刹那的に生きて、ピアノを弾いていた。ピアノだけは周りに評価されて、正当な判断をもらえるからだ。

 そんな暮らしを続けている時に私がフランスに来た。


 注文したチャーハンと餃子が置かれた。餃子は日本より大きくて、すごく食べ応えがありそうだった。


「まさか莉里がフランスに来るなんて思ってもみなかった」


 メッセージを見て、私は律に「どうしてフランスに来たの?」と聞かれたことを思い出した。


「綺麗になった莉里を見て…そして相変わらず純粋なままの莉里で…だから」


 私はその先を知るのが怖かった。

 何も知らないまま、私は律を苦しめていた。何も知らないからこそ、辛い思いをさせていた。

 画面から律の顔に視線を動かす。律の唇がスマホにつけられる。


「壊したくなった」


 憎しみから、律は、私を…。


「でも」とメッセージが届いて、画面を眺める。


 何も届かなくて、私は律を見た。律がスマホをテーブルに置いた。口がゆっくりと動く。声は出ていなかった。


「あ」

「い」

「し」

「て」

「る」


 そう解釈したのは私が期待したから…と律を見ると、もう一度、今度は声を出して繰り返してくれた。


「あ」

「い」

「し」

「て」

「る」


 私をしっかり見て言ってくれる。


「あ」

「の」

「こ」

「ろ」

「か」

「ら」


 律はテーブルに置いた私の手を取って


「ず」

「っ」

「と」と言った。


「ずっと?」


 頷く律を見て、私は律が私にしてくれたことを一つ一つ思い出していた。私を憎らしく思う気持ちだって、本当だろう。でも言ってくれた言葉も優しい行いも嘘じゃない。


 私がそれは一番知っているはずだ。スマホの画面が光った。


「帰ろう」


 それがいいことなのか、悪い事なのか。


 ――分からない。

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