第32話

愛してるから


 気力を振り絞って、今夜の宿を探すことにする。どこでもいいので観光案内所に向かった。そこで適当なホテルを予約してもらうことにする。急いで向かわないと閉まる時間になる。またメトロに飛び乗った。

 今日は急いでばかりだ、と思った。


 繁華街にある観光案内所に近くのホテルを三泊と言って紹介してもらう。すぐに部屋を見つけてくれた。周りの人はいろんなツアーを申し込んだり、ガイドブックを見て楽しそうにしている。こんなところにこんな用事で来るのは私だけだろうと皮肉な気持ちになった。


 プリントアウトされた予約表をもらってホテルに向かう。三つ星ホテルとはいえ、こぢんまりとしたホテルだった。ホテルでパスポートの提出を求められて、慌てたけれど、私は鞄から学生証とクレジットカードを取り出して、パリに住んでいるが、恋人と喧嘩して出てきた、と言った。

 フロントの男性は驚いた顔をしたけれど、私が今日はどうしても彼と一緒に過ごしたくないから、明日、パスポートを持ってくると言うと肩を竦めて了解してくれた。そしてようやく部屋の鍵をもらって、エレベーターに乗る。

 部屋に着いたら、スーパーに行って、夕食と下着を買いに行こうと思った。


 全ての音が変に響いて聞こえにくい。


 部屋にあがって、重たいテキストを置いて、また出かけることにした。私はスーパーに向かって、何か買おうと思ったが何を食べていいのか分からなくて、ポテトチップスとパナシェをかごに入れた。そしてチョコレートチップの入ったパンもかごに入れる。まるで子供みたいな選択だと思う。次に衣料品コーナーで下着を買って、会計を済ませて店を出た。

 自分だけが違う世界にいるみたいだ。音がくぐもって、まるで分厚い膜の中にいる気がする。

 もう耳が治らなければいいのに。ずっとこのままだったら、私は何も傷つくことも悲しむこともない気がした。

 

 ホテルの部屋に戻って、携帯の電源を入れると、律からメッセージが何件も来ていた。


「莉里、ごめん。聞こえないって?」


「大丈夫?」


「どこ?」


「ごめん」


「話がしたい」


「迎えにいくから」


「返信して」


 私はそれを見て、律に「明日、荷物を取りに行きます。耳が聞こえにくくて。今日はホテルに泊まるから心配しないで」と送った。

 そして電源を落とした。


 翌朝、私は朝一番に学校に行った。そしてオフィスに行って、しばらく休むことを伝えた。耳が聞こえにくいので、病院に行ってくると連絡してから、律の部屋に向かった。

 エレベーターが律の部屋まで問題なく連れて行ってくれる。私は少し緊張してドアを開けた。


「莉里…」と律が玄関まで迎えに来た。


 その声も水の中で聞くようにくぐもって響く。


「…律。荷物…まとめるね」と私は言って、部屋に上がった。


「莉里、ごめん」


 そう言って、私を抱きしめる。律はまだ復讐し足りないのだろうか、と私は思った。


「いいよ」と私は言う。


 律は復讐のためだったのだろうけど、私は愛してた。


「いいって?」


「律の好きにしていい。私を使って、復讐したかったのなら、してくれていいから」


「莉里」と体を離して私を見た。


 そう。私はずっと律に何でもしてあげたかったし、持っているもの全て与えたかった。


「私…怒ってないよ」


 律が決めたことを私は応援するって決めていたから。律が何か言ったけれど、私の耳には判断できなかった。


「でも…一緒にはもう…いられないから」と私は精いっぱい微笑んだ。


「莉里…。耳は?」と耳を軽く指で挟まれる。


「…突発性難聴だと思うの。病院行ってくる。…お父さんは? 帰った? 私、連れて帰られる? 何か言ってた?」


 離された体を再びきつく抱きしめられた。


「どうして…。なんで…。莉里は…」


 何か言っているようだけど、語尾が聞き取れない。


「律…私はあなたが好きだから…。全部、何もかもあげる。私のこと、壊してくれてもいいから」


 聞こえないということはいい事だ。言いたいことだけ言って、悲しい言葉は聞こえないのだから。

 そして力なく腕を解かれると、私は自分の荷物をまとめた。パスポートも鞄にしまう。


「律、保険会社に電話してくれる? 病院のアポイント取りたいんだけど、聞こえにくくて」と保険会社の紙を渡した。


「…分かった」


 律が保険会社に連絡して、病院を予約してくれる。


「一緒に行こうか?」と言ってくれているようだけど、私は首を横に振った。


「ピアノ、弾かなきゃ」と私は聞こえる律にピアノを弾くジェスチャー付きで言う。


 スーツケースに荷物をまとめると、律にいつ病院の予約が取れたかメモに書いてもらう。


「今までありがとうね。律と一緒で楽しかったし…幸せだった」と言って、スーツケースを引いて、玄関を出た。


 幸せだった。それは本当のことで、だから悲しさが追いかけてくる。振り切るように私はスーツケースを引きながら歩いた。

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