第31話

失恋


 学校から帰ろうとした時、電話が鳴った。お父さんからだった。


「今から律の部屋に行くけど、莉里は隣の部屋なんだな?」と言われた。


「今から? どこにいるの?」


「オペラ座だ」


「どうして?」


「仕事がロンドンであったから、帰りに寄ったんだ。律に…話があって」


「律に? 私じゃなくて?」


「莉里は少し外して欲しい」


「え?」


 驚いている間に電話は切れた。どうしよう。隣の部屋はもうアルビンが帰って来ているし、何より自分の荷物が律の部屋にある。隣に住んでるのが嘘だと言う事がばれてしまう、と私は焦った。焦って、律に電話するけれど、お父さんと話しをしているのか、通話中だった。私にできることは急いで家に帰ることだった。

 地下鉄の入り口に飛び込んで、ホームまで急ぐ。歩いている人の間をぬっていくから、振り返られる。パリの地下鉄はすぐに電車がくるけれど、今はなぜか遅く感じた。ようやく来た電車に飛び乗って、私は暗い窓に自分の顔が映るのを見ていた。


 私を外して話すということは何の話だろうと考えてみるけれど、お父さんは勘づいている気がして、どうしたらいいのか分からなくなる。私の留学費用も律の生活費も援助がなしになるかもしれない。


(私は帰国してもいいけど…でも律は…まだお父さんの援助がないと生活できない。せっかく活躍し始めたところなのに)と私は思った。


 暗い顔が車窓に映し出される。乗り換え駅に着いた時も急いで私は飛び降りた。一体、何の話をしているのだろう、と気が焦る。


 アパルトモンに着くと、私は急いでエレベーターに乗り込んだ。どんな話をしていて、どんな会話になるのか私は分からないけど、私が帰国させられても、律はここでの暮らしを守ってあげたいと思った。



 部屋のドアを開けると、二人が話していた。


「莉里、外しなさいと言ったのに」とお父さんが私を見て言う。


「律に話って…何?」と私は聞いた。


 律は私を見て、悲しそうに微笑んだ。


「別れろって」


「え?」と私が聞き返した時、お父さんが「本当に付き合ってたのか」と呟いた。


 律はわざと暴露した。私は足が震えて、どうしていいのか分からない。心臓が激しく動いて耳の奥がキーンと鳴った。


「そんなに私に復讐したいのなら、違う方法だってあるだろう。莉里を利用するなんて」


(利用?)


「これで初めて、苦しんだんじゃないですか?」


 低い声で律が訊く。


「莉里は関係ないだろう」


 律は軽く笑った。


「あなたがそもそもの原因じゃないですか? 奥さんいるのに、他所に子供作って」


(律はお父さんに復讐したかったのだろうか)


「だからって莉里に手を出さなくても」


(私を使って?)


「今更…」と律が冷たい顔を背ける。


(律が…)


「莉里のことも、引き取った俺のことも放置してたのに?」


(お父さんに復讐?)


「あの時から、決めてたのか?」


 二人の会話を聞きながら、私はいろんなことがしっくり来た。


(だから…私じゃないと…駄目だったんだ。私は復讐のための)


「まさかフランスに行かされることになるとは思ってなかったけど」


(愛とか…そんなんじゃ…なかったんだ)


 耳鳴りが続いて、私はもう律が何を言ってるのか聞こえなかった。ただ私はゆっくり後ずさりをして、部屋から出ていった。

 誰かの声がしたような気がするけど、私はそのまま歩いた。

 エレベーターが誰にも使われずに、そのまま止まっていてくれてよかった。すぐに閉まるボタンを押す。重力に惹かれるように体が落ちていくのを感じる。

 体温も冷たくなっていく気がして、手が小刻みに震えた。エレベーターのドアが開くと、そのまま建物の入り口に向かう。ぼんやりした光が見える。

 行く当てもないけれど、私はいたたまれなくなって、表に出た。日がゆっくりと暮れかけていた。とりあえず駅の方に向かう。

 しばらく歩いて異変に気が付いた。

 音が聞こえない。

 聞こえるけれど、まるで水の中にいるように聞き取りづらい。

 クラクションの音も、人の声もするのは分かるけれど、何を言っているのか分からない。私は道の真ん中で立ち尽くした。

 そんな時ですら、もう律のピアノも聞けないんだと思った。



 駅前のカフェに入って、私はコーヒーを頼んだ。自分の声も変に聞こえる。店員が何を言ってるのかも分からない。ただ頷く様子を見て、オーダーは通った様だった。

 エスプレッソはすぐに運ばれてきた。私はその場で会計をして、口に入れる。温かいコーヒーが少し気持ちを落ち着かせた。

 私は自分の症状をスマホで調べると突発性難聴らしい。こんな状態では授業も受けられない。そもそも、お父さんから帰国を促させられるだろう。

 きっとお母さんには二人のことは言わないから、また日本に帰って、何事もなかったように私はあの家で人形のように暮らすことになる。

 スマホを調べていると、律からの着信があった。

 私は出ることができずに電話を切る。


「聞こえない」とだけメッセージを送って、電源を落とした。



 律のことを少しも恨んでいない。私はおかげで自由で幸せな時間を過ごせたのだから。

 そう考えると、大したことじゃないのかもしれない。コーヒーを飲んで息を吐くと、ぽろぽろと涙が零れた。

 初めて本当に恋をして、そして失恋をした。

 ただそれだけの話。

 それが姉弟間だった。

 他人だったら、もう二度と顔を見ることもないのだけれど。

 それだけが少し辛い。


 もう街はすっかり暮れて夜が始まっていた。帰宅する人を眺めて、帰れる場所がある人が羨ましく思えた。

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