第30話

秋の優しい時間


 帰国した律を私は玄関先で抱きしめた。大きなスーツケースを玄関に置いたままで律は棒立ちしている。


「莉里? ただいま」


「おかえり。律、大丈夫?」


「大丈夫だからここにいるんだけど」と笑いながら言う。


「ごめんね。だって、律…。そんなこと一言も言ってなかったし、それに他に好きな人できたら…」


「できないよ」


 まっすぐ見られて、私は何も言えなくなった。


「莉里以外…無理。莉里がいい」


 その言葉にどんな意味があるのか、私は分からなかった。



 律がフランスに戻ってから私たちは穏やかな時間を過ごした。平日は学校に私は通い、律はレッスンに行ったり、 練習したり、たまに地方でのコンサートがあって、出かけることもあった。私が行けるスケジュールだとコンサートも連れて行ってくれる。


 そんな時は私にべったりするのを特に隠さなかった。


 周りに


「十二歳の頃、母親が亡くなったから…極度のシスコンなんだ」と律は本当の話を混ぜつつ、冗談っぽく言う。


 意外と周囲はそれで納得して、それどころか早くに母親を亡くした律を同情的な目で見ている。私に対しても「律が呼んでる」とすぐに教えてくれる。


「莉里。アンコール楽しみにしてて」


 そう言って、ひらりと舞台に上がっていく。そして約束通り、アンコールには私の好きな悲愴の第二楽章だけを弾いてくれる。

 それがアンコール曲としてふさわしいとは言えないらしいけれど、律は気にせず私が聴きに来る時は必ず弾いてくれる。


「お姉さんのために弾いてるんですね」と会場のスタッフに言われたことがあった。


「えぇ」と私は少し照れながら頷いた。


 三年しか一緒に暮らしていなかった弟は立派なピアニストになって、私を支えてくれるようになった。


 ピアノの音は綺麗で心地よくて、他の人の演奏はすぐに眠ってしまう。うっとり素敵な気持ちでうつらうつらとしていると、その人の演奏は終わってしまった。おかげで、律の演奏は寝ることがなかった。


 ピアノは大きい楽器で、律の体には合っているのだろう。ダイナミックな演奏だった。私は相変わらず音楽はよく分からないけれど、やっぱり律は素敵だと思った。

 律はスペインで知り合った女の子とも演奏することが決まった。彼女は小さい頃からデビューして、世界で演奏していたらしく、むしろこっちがお願いする立場だったらしい。

 ロンドンで演奏する予定らしく、私は行くか行かないかはまだ迷っていた。学校の都合もあるし、私は私でやらなければいけないことがある。しっかり勉強して、翻訳者になりたいと思っていた。AIが進んでいく未来に私の仕事はないのかもしれないけれど、でも日本語の良さも分かる私ができる翻訳ができたらいいな、と思った。

 律が頑張っているのだから、私も負けないように頑張ろうといつも律を見て思わさせられる。そんな風にお互いが忙しくて充実した日々だった。



 秋は肌寒いけれど、私は嫌いじゃない。


「律、今日はね。薄切り肉を買えたから肉じゃが作るね」


 フランスでは薄切り肉を使うことがないから、自分で買って、薄く切ったりする。自分で包丁で切るから薄くとは言え、そんなに薄くはできない。だから歯ごたえのある肉じゃがになって、微妙な気持ちになる。ひき肉すらもない。すでにハンバーグ型に成型された肉ならあるが、それを潰して使う気にはならなかった。


「中華街行ったの?」


「うん。それでいろいろ買ってきたの。お米とか…。白菜もあった」


「えー、一緒に行きたかったな。重くなかった? それに…フォー食べたり…肉まんとか食べたかった」と律が拗ねた。


「今度、日曜に行く?」


「うん」と言って、律が後ろから私を抱きしめながら鍋を見る。


 まだジャガイモと玉ねぎが入っただけだった。


「莉里…。毎日ご飯、ありがとう」


「まだ上手くできないけど。日本にいた時は冷凍食品を活用できたから…」


「あの時のお弁当もありがとう」


「美味しく食べてくれて、ありがとう」と私は律の方に顔を向けた。


 律が顔を覗き込んで頬にキスをくれる。


「このままじゃ、ご飯作れないけど?」


「あ、そっか。じゃあピアノ弾いて待ってる」


「そうして」と言うと、私は匂いがこもるから少し窓を開けた。


 律のピアノの音が鳴る。それを聞いたのか、マシューが隣のベランダから顔を出した。マシューも律のピアノのファンかもしれない。私はご飯を作るのに専念する。

 もうすぐに暗くなる夕方だけど、私は本当に幸せな気分でゆったり過ごせた。悲しいことなんて、どこにもないように思えた。



 律の言う「あの人」、私の父親がパリまで来るとは思わなかった。

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