第29話
帰国
律が日本に帰国してしばらくすると、私の学校が始まった。忙しくしているし、一人だからご飯も適当になる。隣にアルビンが帰って来て、マシューがたまに来るくらいで、静かだった。それに何より嫌なのは朝の八時になっても暗いことだった。夜がうんと長くなるのは分かるけれど、朝が遅いのは本当に困る。起きれないし、起きてもなんだか気持ちがしんどい。
律はこんな朝を何度一人で迎えたんだろう、と思うと私は苦しくなった。
学校で数人の日本人と仲良くはなったけれど、みんな勉強に必死で放課後までべったり一緒ではなかった。それがありがたくて、私はいろいろ聞かれることがなくて、ほっとした。
「リリィ」とアパルトモンの入り口でアルビンに声を掛けられる。
今日、部屋でフェットというパーティーをするから、よければ来ないか、と言われたのだった。あの日本のアニメ好きな生徒も来るらしくて、彼が私を呼んで欲しいと言ってたと言う。
「あ…えっと」
別に用はないが、乗り気でない私をすぐに理解して
「行きたくないことは無理にしなくていいんだ」とアルビンが断ってくれた。
「ごめんなさい」
「ところでピアニストは?」
「帰国中です」
「そっか。それで元気ないの?」とアルビンに訊かれた。
心理学の先生だけあって、すぐにわかるのだろうか。
「じゃあ、マシューを貸し出すから、お世話してくれる? マシューも君と一緒でフェットとか大人数が苦手そうだから」
「はい」と私が言うと、アルビンは微笑んだ。
知らない人に親切にできる彼を私は尊敬する。できれば私もそうなりたいけれど、なかなか難しいと思っていた。
その日、フェットはかなりの騒音で、苦情を言いに来る人がいたけれど、そっとドアを開けて様子を伺っていると、苦情を言いに来た人はアルビンに見事誘われて、そのフェットに吸い込まれていった。何人も来るけれど、その度に吸い込まれていくから、部屋はより賑やかになった。私はマシューと一緒に眠りたかったが、マシューはソフ
ァベッドがいいようで、そこで寝息を立てた。私がシャワーから出ると律から電話がかかって来た。すぐにビデオ通話に変える。
「莉里? 寝る時間かな?」
律の美しい顔が画面越しに映る。
「うん。そう…でも今日は無理かも」
「え? 何かあった?」
「あのね、アルビンがフェットしてて…。ちょっと賑やかなの」
「あぁ。じゃあ、楽譜を置いてる棚に小箱があるから、そこ開けて。耳栓入れてる」
「え? よくあることなの?」
「まぁね。最近はなかったけどね。莉里は行かないでよ。アルビンはいい人だけど…」と律が言う。
「うん。行ってない。なんだか…体が重くて」
「具合悪いの? すぐにお医者さんに行って」と律が心配してくれた。
「ううん。多分、朝があけるのが遅くて気分的に。後、律もいないし…」と私が言う。
「…ごめん。後、明日は電話できない」
「そう? コンサート?」
「コンサートは終わったんだけど…手術しようと思って」
私はびっくりして画面の律を眺めた。どこか悪かったのだろうか。だから急に帰国したのか、と私は驚いた。
「そんな…知らなくて。知ってたら一緒に帰国してたのに」
「大したことないから…。手術って言ってもどこも悪くないんだ」
「え? 悪くないのに手術?」
「うん。パイプカットの手術をしてくるね」
理解が追い付かずに、一瞬、空白の時間があった。
「…律? どうして?」
「だって、莉里と一生、一緒にいるから。今、莉里に負担させてることが嫌だ」
「…律。そのために帰国したの?」
「まぁ、そう。コンサートはついで」
何てことを言うんだろうと思って、私は言葉を失くした。
「でも…律は子どもを作れなくなる…」
「別に必要ないよ。莉里と一緒にいる方が大切だから」
私は何を言っていいのか分からない。でも大変なことをしようとしている気がしていた。
「でも…そんなこと、勝手に決めてしまって…」
突然過ぎて、どんな言葉を投げかければいいのかも分からない。
「…莉里。これは俺なりの覚悟だから」
私の思考は止まってしまって、うまく説得できる言葉も見つからなかった。私に何も言わずに帰国した律はきっと用意周到に準備を重ねてきたのだろう。
「私が…赤ちゃんはできないようにしようって言ったから…」
「莉里がそう言ったのは当然だよ。生まれてきたって幸せになんかならないよ」
その言葉には重みがあった。
私はもう何も言えなかった。
「泣かないで」と律に言われた。
辛い選択をしたのは律だというのに、何もできない私はただ涙を流すことしかできなかった。
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