第28話

ごめんね


 二日酔いで昼近くに起きる。律はもう涼しい顔で椅子に腰かけて、楽譜を見ていた。たまにテーブルを鍵盤に見立てて指で弾いていた。


 起き上がった私に「おはよう」と言ってくれるけれど、私は喉がからからで声が出なかった。


「…み…」と音を発しただけで、コップにミネラルウォーターを注いでくれる。


 律は本当に恋人だったら満点だと思う。そう思って、コップを受け取った。喉から水が入っていって、体のすみずみに広がったような気がする。


 深い息を吐いて、律を見ると心配そうな顔をしている。


「莉里、大丈夫?」


「…うん。ごめんね。昨日、迷惑かけて」


「ううん。別に…何も」と優しい笑顔で言ってくれた。


「シャワー浴びてくるね」と私はベッドから出た。


 シャワーを浴びるとさらに体中の細胞が水を含んだような気持ちになる。昨日、律に私は愚痴を言ったんだろうか、律が「ごめん」と何度も言いながら抱きしめてくれた記憶があるけれど、私は自分が何を言ったのか思い出せなかった。律に対する愚痴なんて、一つもないのに…。


 シャワーから出て身だしなみを調える。律はいつもきちんとしていてびっくりする。私は姉なのに、だめだな、と少し落ち込んだ。洗面台で軽く化粧もして、血色良くみえてきた。バスルームから出ると、律が私を見て微笑んだ。


「莉里、ご飯…。お昼になるけど、食べに行こうか。行ける?」


「うん。律、ごめんね。朝ごはん食べてないからお腹空いてるでしょ?」


「大丈夫だよ。…莉里、綺麗になったね」


「え?」


 そんなに酷かっただろうか、と私は反省した。


「ぼさぼさの莉里は可愛いけど」と私の不安を消すように言った。


「あのさ…昨日、私、なんか変なこと言った?」


「え? 何も言ってないけど?」と律に言われて、私は律がどうして謝ったのか聞けなくなった。


「そう言えば…」と律が言うから、何かまずいことでも言ったのかとぎくりとしてしまう。


 私は律の目をじっと見た。


「好き、好き、大好きって何度も言ってくれた」といたずらっぽく笑う。


「…え? それだけ?」


「それだけだよ」


 それでどうして「ごめん」なんだろう。


 私は律に振られたのか? と思って律に訊こうとして口を開けた時、抱きしめられて「嬉しかった」と言われた。


 私の記憶違いだろうか。よく分からなくて、でも何だか聞けなかった。


 律が私に「愛してる」と言ってくれたから。


 お昼は二日酔いあけの私のためにガスパチョを頼んでくれて、律はイカ墨のパエリアを食べていた。サングリアは禁止されたので、オレンジジュースを選ぶ。ガスパチョはニンニクが効いた冷製トマトスープだ。確かに二日酔いには良さそうだけれど、私は律のパエリアが美味しそうに見える。


「莉里、ガスパチョ美味しくないの?」


「すっごく美味しい」と鼻の上に皺を作って答える。


 トマト以外の野菜も入っているようで、味わい深くて、それでいてさっぱりした口当たりは暑い日にはいいスープだった。でも律のイカ墨のパエリアはタコやら、エビ、貝が乗っている。


「そんなに美味しいなら一口くれる?」と律が言うから「じゃあ、少し交換しよう」と私は言うと、律が笑った。


 きっと私が考えることがお見通しだったのだろう。


「莉里って…そんなに大人じゃなかったんだね」


「なに、それ」


「小さい頃はすごく大人だと思ってたから。何でも知ってるし」と言って、笑いが止まらないのか、ずっと笑っている。


「そんなことないわよ。今だって、律より…」


 大人と言えるのだろうか。律は中学生からフランスで暮らして、異性との交際だって数多く経験がある。


「はい」と私が考え込んでいる間に、お皿にパエリアをよそってくれる。


 律は時間を飛び越えて、苦労と経験を私よりたくさんしたから、優しいし、成長したんだと分かった。


「俺より、何?」


 私が律より秀でてることは何一つない。ピアノが弾けるわけでもないし、料理だって、難しいのはできない。


「…何もない。律よりすごいこと…」とため息を吐いた。


「そんなことないよ。莉里はずっと優しくて、純粋だから」


「純粋?」


「そのままでいて欲しい」


 それは今まで苦労知らずだからかもしれない。


「…だからごめんね」


「え?」


 また律から謝られた。


「莉里が辛くないかなって」


「…辛くなんか」


「莉里は違う人と幸せになれたかもしれない」と顔を逸らした。


 昨日、謝っていたのはそう言う事だったのか、と理解した。


「律…。私、少しも後悔してないし、それに律以外の人となんて考えられない」


 私は他の男の人に過剰に気持ち悪くなることがある。どうしてか分からないけれど、律だと平気なのに…。


「俺も、莉里が他の人なんて考えたくはないけど」


「もうこの話は辞めよう。せっかくスペインに来てるんだから」と私は気分を変えることにした。


 知り合いもいない土地にいるのだから、何も考えたくない。


 昼食後、私たちは恋人のように、街を散策した。いろんな場所を見て、たまにチュロスを食べたりして、公園で休憩したり、ずっと手を繋いでいられた。


「そう言えば、ピカソってスペイン人よね? 美術館ある?」


「あるよ、行く? 莉里は好きなの?」


「全然。だって…落書きみたいだから、いまいち、価値が分からない」


 素直な感想を言うと、律が笑う。


「笑うってことは律はさぞピカソの意味が分かってるんでしょうね?」


「まぁね」と偉そうに言ってから「変な絵だって分かってる」と言った。


 結局、私と律は絵に関しては同じくらいしか分からないっていうことが分かった。美術館にはいかなかったけれど、私たちは市場に行って、買いもしない生ハムの塊を見たりして、あーだこーだと喋りながら一日を過ごした。



 夜、律に愛されて、私はまるで溶けて一つになる気がした。キスを受けながら、なぜか涙が流れる。律の手が私の頬を優しく撫でた。


「莉里…。しばらく日本に帰ろうと思うんだ」


「え?」


「向こうで少しコンサートして…。また戻ってくるから」


「…コンサート? どれくらい?」


「…一月くらい。待ってて」


「…うん」


 急に淋しさがこみ上げて、私は律の背中に手をまわして力を入れて抱きしめる。広い背中は腕が全部回らないけれど、律の堅い体をじっと感じていた。

 秋になったら、急に淋しくなるな、と私はぼんやりと思った。

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