第27話
優しいキス
律に泣いた顔を見せたくなかったので、しばらくトイレに行って、化粧直しをしたりした。化粧用品を持ち歩くようになってよかった、と私はため息を吐く。スペイン語だから周りが何を言ってるのか分からないけれど、みんな興奮したように顔を上気させて話していた。私はトイレから出て、ロビーに出ると、律はいろんな人に囲まれていた。
私は遠目でそれを見ながら、ずっと律を支えて行こうと思った。私も何か仕事をして、音楽活動を支えられるように、と思った。あんなに輝いている律の側にいれるだけで、幸せだと思う。律が私に気づいて、周りの人に断って私の方に歩いてきた。
「莉里、どうだった?」
「よかった、すごく」と言ったと同時に抱きしめられた。
「聴いてくれた?」
耳のすぐそばで尋ねられる。
「うん。あの…二曲目」
「うん。予定にないことしちゃって、怒られたけど、どうしても莉里に聞かせたくて」
「…えぇ?」と私は体を離して律を見る。
いたずらっぽい律の笑顔が広がった。
知り合いがいないとは思うけれど、私は誰に見られて、何を言われるか分からないから、体を離す。
「ご飯、食べよう。お腹空いた」と言う律に着替えてくるように言った。
まだタキシード姿だった律はその容姿でも目立つ。
「一緒に楽屋行こう。楽屋の前で待ってて」と言われる。
「…分かった」
二人で舞台の横から楽屋に行く。男性用と女性用と別れていたから、私は廊下で待っていた。いろんな演奏者が普段着に着替えて出てくる。その中で綺麗な女性が私に英語で声をかけてきた。私が日本人だから律の関係者かと聞いてきて
「彼と演奏したい」と言う。
「…あ、伝えておきます」と言うと、彼女は私に連絡先のメモを渡した。
マネージャーになれる気がする。でもそれじゃあ律の演奏に収入を頼ることになるなぁ、といろいろ考えてしまった。
律が着替えて出てくると、私は早速さっきの伝言と連絡先を伝える。
「ありがと。仕事になるかな。一応、事務所に連絡しておく」
「事務所?」
「そう。事務所に入ってる」
「えー。そうなの?」
「なんでそんなに驚いてるの?」
「ううん。別に…」
マネージャーになろうと思っていとは言えなかった。
「早く有名になって、莉里と一緒に世界一周しよう」
「…うん」
希望、夢、輝かしい未来。不安があるのに、律は少しも気にしていないようだった。私も律と一緒なら、と思った。
劇場から出て、近くのバルに入る。立ち飲み屋なので、立ったまま食べるのだけど、目の前に並んだおかずがどれもおいしそうだった。
「スペインってお米も食べるし、魚介も食べるし、食文化はフィットする」と私が言うと律が「じゃあ、将来はスペイン拠点にしようか」と言った。
二人でサングリアを注文する。
「治安の問題はあるけど…。でも…美味しいし、悩んじゃうなぁ」
「莉里…。ありがとう」
「え? どうして? 私の方が感謝しなきゃ。連れて来てくれて、私のために演奏してくれて」
「ううん。莉里が覚悟して一緒にいてくれてるの分かるから」
私は律の整った横顔を見る。
「仕方ないよ。こんなに男前なんだから」と言うと、律が笑った。
二人で乾杯する。小エビのアヒージョを注文して、ジャガイモのアリオリソースをつまむ。
「男前でよかった」と大げさに言うから私も笑う。
ジュースのように飲んでしまうサングリアのせいで、酔いがすぐに回る。
「律…。舞台の上で、一番、光ってた」
そんなことを言うのは恥ずかしい気がしたけれど、伝えておこうと思った。
「何弾いたか分かった?」
「全然…。でも律が一番、素敵だった。私の自慢の弟だって…言いたかった」
「もう酔ってるの?」
「酔ってるかな? だから律が…もっと素敵に見える」と言って、私はサングリアを飲み干した。
「莉里…、それジュースじゃないから」と律が慌てて止めたけれど、私は立派な酔っ払いになった。
そこからご機嫌で律に絡んで、ホテルまで帰ったらしい。律は衣装の荷物もあったし、大変だったと思うのに、文句ひとつ言わなかった。それどころか、靴も脱がせてくれる。
「莉里…着いたよ」とベッドに横たわらせてくれる。
「うん。あのねー。私、本当に今は幸せな気持ちなの。ご飯は美味しかったし、お酒もおいしかったし、後、律は本当に…」
ぐだぐだと言ってるのに、荷物を片付けながら優しく頷いてくれる。
「律…大好き」
私は衣装をかけている律の背中を見た。広く大きくなった背中はどうして弟なんだろう、と思う。私は手を伸ばしかけて、そのまま下した。
「莉里?」
振り返った律が私を見て「辛い?」と聞いた。
「え?」
私は幸せだって言ったはずだった。
「しあわせ…って、言ったの…聞いてなかった?」
「うん。聞いてた」
そう言って、私の側に来て、頭を撫でてくれる。
「ごめんね」
謝られて、悲しくなった。
「律が謝ること何もないのに…」
「ううん。俺が…悪い」
優しくキスをしながら言うから、それはそうかもしれない、と思った。
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