第26話

夏の終わり



 夏の短期の語学学校が終わって、最終日はクラスでパーティをしたりしたけれど、思ったよりあっさり終わった。女の子たちは帰国前の買い物に出かけたからだ。


「莉里さん、ありがとうございます。帰国したら教えてくださいね」と明るく手を振ってくれた。


「気を付けてね」


「はーい」とみんなで駆けだしていった。


 私は一人残されて、淋しさとそして少し安堵のため息を吐く。教授と呼ばれてた人も地方の大学に行くというので、それはそれで気持ちが楽になった。

 夏の終わりに私も律とスペインに行く。それがバカンス代わりになったらいいなと思った。



 部屋に戻ると、律が荷物を詰めていた。


「おかえり」と言いながら、微笑みかけてくれる。


「ただいま」と私も同じように微笑む。


 ぎこちなく感じた関係の変化も今はそれが普通に思えた。誰にも言えないことを覗けば、私は律を心から愛して、愛される関係だと思っている。


「私も荷造りしなきゃ」


「莉里…。最後の二日はフリーにしてるから」


「わー。嬉しい」と私は律に抱き着いた。


 荷造りをしていた律は衝撃でお尻を床につく。


「本当は一週間くらいゆっくりしたいけど」と言って、私の前髪を掻き上げる。


 律の綺麗な額に私は自分の額を付けた。律の長いまつげが触れそうな距離で「ありがとう」と言った。


「莉里…。荷造りの邪魔」と言われて、キスをされた。


 幸せだった。誰にも言えないけれど。

 愛してる。愛してる。

 繰り返して、繰り返される。



 スペインでは若い演奏家の一人としてコンサートに出ていた。いろんな国の若い人たちが舞台に上がる。誰もかれもが輝いて見える。でも私には律が一番光って見えた。それは個人的な思いかもしれないけれど。スペインの人たちは日本とは違って、クラシックであっても熱狂的に拍手をしてくれる。こんな環境で音楽ができるのはとってもいいことだ、と思った。

 舞台に上がる律は堂々としていて、私は彼が私の弟であることが誇らしくて、みんなに自慢したかった。

 律が何の曲を弾いてるのかさっぱり分からないけれど、それでも素敵だと思った。演奏が終わると、私は両隣のスペイン人に負けずと大きな拍手を送った。

 律はいったん、立ち上がって、お辞儀をしたが、またピアノの前に座った。


(あれ? 今日は一曲だけって言ってたのに)と私が思った時、悲愴第二楽章が始まった。


『それを弾くときはずっと莉里を思ってる』


 律の声が聞こえる。

 私のためだけに弾いてくれる曲だ。


 曲が終わって、熱狂的な観客たちは静まり返っていた。鍵盤から離れた律の手が膝に置かれると同時に歓声と拍手が鳴りやまなかった。私はさっきとは違って、拍手もできずに固まったまま涙を流していた。

 律は満足そうに笑顔でお辞儀をして、舞台袖に戻っていった。拍手が鳴りやまないから、何度か舞台に戻されたけれど、もう律はピアノは弾かずお辞儀だけだった。

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