第25話

ベッドの体温


 もう律はソファベッドで寝なくなった。律の体温を背中に感じながら一緒にベッドで寝ている。私はいろんなことが不安で、押しつぶされそうになった。


「莉里?」と眠れない私を気遣って、背中から律が声をかける。


「何でもない」


「どうしたの? 何かあった? 今日は落ち込んでるように見える」


「…大丈夫。少し…」


「ごめん。莉里。何かあるなら、言って欲しい。一人で抱えるのは無理だから」


 律が後ろから顔を覗かせる。仕方なく、律の方に体を向けた。


「お父さん、私たちのこと気にしてた。隣に住んでるのを良く思わないみたい」


「あぁ…」と律は天井に体ごと向く。


「自分は好き放題したくせに…」と私は愚痴を言った。


「フランスに行くようにピアノの先生が言ったのは…あの人が言ったんだ」


 律は父親のことをあの人と言う。


「え? どういうこと?」


「コンクールで上位に入った時…ピアノの先生は軽い感じで『律君は将来留学するといいね』ってあの人に言ったら…『中学生でも留学できますか?』ってあの人が言ったんだよ」


 私は驚いて上半身を起こした。律のコンクールの付き添いだけはお父さんが行っていた。それは亡くなった律の母への想いがあったからかもしれない。


「それって? お父さんが律をフランスに行かせたの?」


「まぁ、先生も乗り気だったし。…決めたのは俺だけどね。でもあの人は…あの時からなんか感じてたんじゃないかな」


 私はあの時はただひたすらかわいい弟ができて嬉しくて、二人で一緒にいれることが幸せだとしか思ってなかった。


「律は…あの時から?」


 律も体を起こして、私の頬に触れた。


「考えてみてよ。家に綺麗なお姉さんがいて…誰より優しくしてくれて…。好きになるのは当たり前だろ? あの人も気づいてた。まさかフランスとは思わなかったけど」


「でも中学の頃は…律はあまり話してくれなかった…」


「思春期の恋ってそんなもんだよ」と言って、私の頭を胸に抱いた。


「…嫌われたかと思って」


「まさか。…一応、あの時は気持ちを抑えてたから」


 でも今はいいのだろうか、と疑問に思って、律を見る。


「だって仕方ないよ。俺も大人になったし…手を伸ばせばすぐのところにいるんだから」


 それなのに、私は何も気が付かないまま律の前に来た。


「もうあの人の言う通りにはしない。莉里のこと、幸せにするから」


「…律」


「いいよ。別に。姉弟仲良く暮らせば。日本に戻らず海外で暮らせるように、俺、頑張るから」


 シーツの上に置いた手をそっと握ってくれる。


「莉里を守れるようになるから」


「…うん。ありがとう。私も…律のためになれるように…」


 二人しか存在しない世界だったら、私が思うような問題は何一つ起こらない。アダムとイブの楽園にいたなら、律はピアノを弾いて、私は横でずっと果物を食べて怠惰に過ごす。

 そう思って、目を閉じる。律が私の髪にキスを繰り返してくれた。



 朝が来て、私は気が進まなかったけれど、語学学校に向かった。律も楽譜を買うというので、二人で地下鉄に乗り込む。


「今日は何食べる?」


「ケバブ…食べに行こうか」と律が言うから、私は「美味しいけど、どうしてケバブなの?」と聞いた。


「適度にカロリーがあって、お手頃だから」


「律…。いつもそんな感じだったの? お父さんに仕送り額増やしてって頼んだんだけど…」


「…なるべく、あの人のお金、使いたくなくてさ」


「じゃあ、私が使ってあげる。私は正当的に使えるから」と言うと、律は笑った。


「確かに…」


「今晩は私のおごりね」と言うと、律は笑いながら頷いた。


 律の乗り換え駅が来たので、私は手を振った。


「また夜に」


 夜に会えるというのに、別れる瞬間はなぜか胸が苦しくなった。



 語学学校で教授とすれ違ったが、何も言ってこなかった。その代わり女の子たちにランチで質問された。午後の授業を休んだからか、何があったのか、知りたかったらしい。アルバイトの斡旋をされたということだけ話した。


「えー。それって莉里さんに気があるんじゃないですか」とさすがに勘のいい女の子が言う。


「それ、それ。気持ち悪いー」と容赦なく言う。


 他人にそう言ってもらえて、私は自分が感じたことが変じゃないと安心する。


「莉里さんは彼氏さんいるんですか?」


「あ、それで面倒だったから、いるって言ってるの。聞かれたらいるって言って」と私はお願いした。


「まぁ、あんな美形の弟さんがいたら、難しいですよね」とため息を吐く。


「…あ、そうそうなの。ほんと、それで…理想が高くなっちゃって」


「莉里さん…かわいそう」


「え?」


「私だったら、完璧なブラコンになる」

 

 ブラコン…。そんなものじゃないことが言えずにそれを抱えて微笑んだ。嘘を吐くと言うのは簡単なようで、ちょっと難しい。

 私はランチ時間が苦痛になってきた。あんなに楽しかった語学学校が早く終わることを望んだ。



 マシューを受け取りにアルビンの教えている学生が来た。眼鏡をかけていて、背の高いフィンランド人だった。彼はヘンミンキという名前で、日本のアニメが好きだという。私が日本人だと言うと、喜んでくれたので少し話をした。


 マシューを抱きかかえたままで、腕がしびれないかと心配したが、彼はマシューを抱えたままずっと話している。


 通りからクラクションが聞こえて「あ、友達待たせてた」と慌ててエレベーターに向かった。

 腕の中にいるマシューは不安そうな声で鳴いた。

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