第22話
暑い一日
真っ暗の中で律のピアノの音が聞こえてくる。あれから私は眠ってしまったようだった。体を起こして、シャワーを浴びた。触れられた体は律の匂いが移っている気がして、戸惑ってしまう。シャワーを浴びると気持ちがさっぱりした。
まだピアノの音が続いていて、こんな夜中に怒られないのかと少し心配する。リビングに顔を出して「律…」と言った。
「…起きた?」
「うん。ピアノ…怒られない?」
「バカンスでみんな旅行中だよ」
「そう…なの」
「莉里…。後悔してる?」
私は首を横に振った。神様に顔向けできないかもしれないけど、私は後悔していなかった。
「律は?」と聞くと、顔を背けられた。
後悔しているのだろうか、と一瞬、怖くなる。
「莉里は…優しいから。漬け込んだ自分が許せない」
私は律に手を伸ばした。
「私…そんなに」
夜の薄暗い月明りに浮かぶ律の輪郭が青白くて、儚くて、消えそうだった。
「優しくなんかない」
律を横から抱きしめる。振り向いた律に私からキスをした。この綺麗な弟を欲しくなったのは私だと言うように。
フランスに来た理由はこうなることを予想してたから。
私は知っていた。律を好きになることを。
ずっと一緒にいられたらいいのに…とあの日、別れた日、そう強く思っていた。
ファーストキスを律からされてからずっと。
「律…」
愛してる。好き。どんな言葉も当てはまらない。
「ずっと側にいるから」
律に抱きしめ返される。
「莉里…。側にいさせて欲しい。永遠に」
私は何度も頷いた。涙を流しながら。
「おばあちゃんになっても?」
「うん。ずっと側にいる」
「悲愴の二楽章弾いてくれる?」
「それを弾くときはずっと莉里のことを思ってる」
幸せだった。倫理的に許されなくても。私を受け入れてくれる人が律で良かった。
「律…。もし…私がどんなことになっても、私はずっと律のこと思ってる」
その言葉に律は何も言わなかった。ただ優しく背中を撫でてくれた。
その年の夏のパリは暑くて、私も律も早くバカンスに出かけたかった。ピアノを練習していても、汗が出ると言う。
「日本の夏も大変だけど、クーラーがあるからなぁ」と律は言う。
「日本に帰る?」と言って、私は水に浸して凍らせたタオルを律にほぐして渡した。
ありがとうと言いながら、首筋を拭く。律の首筋が水分を含んで光る。
「ううん。スペイン行くまで頑張る」
急に異性として意識し始めて、どうしていいのか分からない。
「じゃあ、私、語学学校に行ってくるね」
「行ってらっしゃい」
律の笑顔を見ていると、体温が上がる。やっぱり今日は暑くなりそうだ、と思った。
「帰ってきたら、アイスでも食べに行こう」と私は手を振った。
語学学校に着くと、日本の大学でフランス語の講師をしている男性が建物の入り口で立っていた。
「おはようございます」と声をかけると「今日、ランチしない?」と言われた。
「え? あ…」
「約束ある?」
「…約束は…」と言い淀んでいる間に「じゃあ、ここで待ってるから、また後で」と言われて去って行った。
あっけにとられていると、後ろからいつもの女子大生軍団が現れて明るく挨拶してくれる。
「莉里さん、おはよーございます。弟さん、すごいイケメンでしたね」
「おはよう。…ありがとう」
「さっき、教授に声かけられてましたけど、なんか用ですか?」
「教授?」
「そう。あだ名です。大学で教えてるから教授です」
「…用事は分からないけど…」
「あー、ナンパされたんですね」と楽しそうに笑う。
否定する間もなく、彼女たちは明るい声で笑う。
ナンパかは分からないけれど、何の用事かも分からないまま、私は自分のクラスに入って行った。
ランチになって、語学学校の建物から出ると、教授が待っていた。他の女の子たちは「じゃあ、また」と私を置いていった。
教授は四十代手前だろうか。淡いピンク色のシャツを着ていて、身だしなみはきちんと整えていた。
「何食べたい?」
「…何でも大丈夫です」と私が言うと、近くのカフェに行くことになった。
プラットドジュールという「本日のメニュー」を頼んだ。チキンのクリーム煮だった。赤いチェックのテーブルクロスのかかったテーブルに向い合せで座る。
「あの…話って何ですか?」
「…帰国したら、何するの?」
「え? 帰国後…ですか」
「そう。フランス語学んで、どうするの?」
「…まだ何も決まってないですけど」
「じゃあ、僕の研究室で働く?」
「アルバイトですか?」
「まぁ、そんな感じ。アルバイトして頑張ってくれたら、他の仕事も斡旋できるし」
大学のフランス語学科で働けるのだろうか、と私は少し思った。
「今後、パリの大学で語学を学ぶんだろう? ちゃんとディプロマを終了するっていうのが条件だけど」
「…それはもちろん、そうするつもりですけど。でも…どうして私なんですか?」
「まぁ、それは君の学歴や、フランス語能力…。後、一緒に働くんだから綺麗な子の方がいいよね」
また一瞬で気持ち悪さを感じた。
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