第21話
深い底
向こう向いたままでこっちを少しも見てくれない。
律が私を好きだから、フランスへ行ったという事実に衝撃を受ける。
「律、律」と私は慌てて呼ぶ。
律はピアノの勉強がしたくて、遠くに行くんだからと私はのんきに自分を慰めていた。
一人だけになった、と悲嘆していた。
何も知らずに自分のことばかり考えてた。
それなのに、本当は律は私が好きだからと遠くへ行った。私がフランスに来た時「どうしてここに来たの?」と言う理由はもっと深かった。
「ごめん。私…律のこと…」
心配だから。会いたくて。いろんな思いで来たけど、律を苦しくさせてたのかもしれない。律の腕を取ると、律が振り返って微笑んだ。
「気にしなくていいから。莉里が幸せだったら、それで」
その微笑みが私の胸を締める。
「律が幸せじゃないと…私…」
「莉里は優しい」
私は自分が残酷な人間な気がしてきた。律を不幸にしたくないと思いながら、口当たりのいい言葉を出すだけで何もしない。そのくせ、律が他の女の子といることを平然とできずにいた。
「いいよ。律」
「え?」
律の腕を掴んだまま、私はつま先立ちして、目を閉じた。律の想いだって、もっと早くに気づけたはずだった。それに、今だって、結局はこうして律に決定権をゆだねている。
(ずるい)
そう自分で思った瞬間、ふわっと抱きしめられた。律の温かさと匂い。少しも嫌じゃない。律が下心あったとしても、少しも気にならないし、キャラメルのように溶けて一つになるような気がした。
「莉里…。無理しなくていいよ」と律の声が頭の上から聞こえる。
「無理なんか…してない」と私は律の心臓に伝える。
律への想いを考えないようにしてたのは私の利己的な気持ちからだ。家族愛だと、そう思って過ごそうとしていた。そして自分可愛さに律に中途半端な優しさを示していた。
「今でも…初恋が終われない」
律の言葉を聞いて、私は涙が出た。パリの狭い歩道で何をしているんだろう、と思ったけれど、しばらく動けなかった。
マレ地区から南へ歩いてシテ島に入る。修復中のノートルダム寺院を横目に手を繋いで律と歩いて行く。明るい顔をしている観光客の合間を縫って、カルチェラタンの方
に向かった。
「地下鉄乗る?」と不意に律に訊かれる。
「え? 大丈夫だよ」
「足痛くない?」
「少し…」
「じゃあ、あそこにメトロの駅があるから」
「律…。少し、話ししたい。カフェ行こう? 急いでる?」
「ううん。いいよ」
喉が渇いてたから、私はレモンシロップのソーダ割を注文する。律はエスプレッソを頼んでいた。
店内のテーブルは古い店のせいか観光客は少なくて、地元の人たちが座って話し込んでいた。
「…律、私、正直に話すね」
上手く伝えられるか自信がなかったけれど、もう見ないふりはできなかった。律だけが苦しんでいいはずはない。
愛が何かよく分からないけれど、律が他の人と親し気な時に嫉妬していたし、律のためなら何でもしてあげたいという気持ち、持っているもの全て渡しても少しも惜しくないという気持ち、それが家族間の愛と同じなのか、違うのかも分からないと伝える。
「でも…はっきりしてることが一つだけあって。それは律に触れても少しも気持ち悪いということがないってこと」
飲み物が運ばれてくる。律がポケットから現金をテーブルの上に置いた。ウエイターがそれを受け取って、レシートを破って去っていった。
「…ありがとう」と律が目を伏せる。
「それに、もっと…触れたいと思った」
この気持ちが恋愛の愛かは分からない。
でもこんな風に律を俯かせたくなかった。
そこに見ないふりをしていた大きな深い穴がある。覗いてもきっと底は見えない。でも私は覗き込むだけじゃなくて、飛び込んでみようと思ったのだった。だって、その深い底に律がいるのが分かったから。
「触れたい? 俺に?」
「うん。律に…。律を好きなこの気持ちが…何かはっきりさせたい」
「…莉里はいいの?」
「子どもは作らないようにして」と言うと、律が手で口を覆う。
きっと何もない方が私は後悔するし、律は辛いだろう、と思った。
いつまで経っても暗くならないフランスの夏は光が部屋に差し込んでいる。寝室までは光が届かないけれど、ドアの隙間から光が漏れている。マシューは餌を食べた後、ソファの上で眠っている。
気遣うようにゆっくりと律は私を抱いた。肌が触れ合うと一層私は律と溶け合うような気がする。
「莉里…。好きだ」
唇が触れて、もっと深く触れ合う。
「好き」
律のこと、異性として好きだと確信した。
「ごめん」と律が謝る。
「どうして?」
「莉里は優しいから」
「ううん。私が…律に触れたかったから」
この先、どうなるかは分からない。でも今の私たちには必要なことだったと思う。ただ一度、堰を切ってしまうと、もう勢いを増して、私たちは深い穴に落ちるしかなかった。誰にも救えない深い底で、うっすら見える光を見た。部屋に僅かに差し込んでくる光のように。
ずっと私の髪を撫でてくれる律に言った。
「ずっと側にいるから。…律が違う人を選ぶまで」
「それは俺の台詞」
幸か不幸か法律で消されない関係である私たちは永遠に他人にはなれない。
「莉里…ごめん。幸せなんだ」
律がそう思ってくれると知って、安心して目を閉じた。
神様、ごめんなさい。
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