第19話

守ってあげたい


 案の定、語学学校の建物の入り口で待っていた律は学生に取り囲まれた。


「莉里さんの弟さん?」


「ピアニスト? すごい」


 私より、律が困るんじゃないかと思ったけれど、思ったより機嫌よく対応していた。


「姉さんにメイクしてくれてありがとうね。いつも飾らないから…」


「莉里さん、整ってるのに…」と昨日メイクしてくれた女の子から恥ずかしいことを言われるから、私は困った。


「うん。知ってる」と当然のように言うから、さらに恥ずかしくなる。


 変な悲鳴のような歓声が上がる。


「じゃあ、そろそろ行くね」と律が私を促した。


「またね」と私もみんなに挨拶する。


 みんなに手を振ると、ほとんどの子が律を見ていた。


「美形の弟がいると…なんだか恥ずかしくなる」と私が律に言うと、律が「そう?」と気にしないような声で言った。


 私と律はギャラリーラファイエット百貨店の化粧品売り場に行く。化粧品売り場なんて滅多にこないから、どうして買えばいいのか分からない。店員さんに声を律がかけるから、少し慌てた。いろんな色を試させてもらって、律が横から「あれがいい」とか「それはちょっと」とか言うアドバイスを聞いて、アイシャドーとリップを決めた。どうせ私は自分でメイクした顔を見る時間は少ないのだから、律に決めてもらうのが一番だろうと思った。


「それを買います」と私が言うと、律が「俺が払うから」と言う。


「ちょっと、この前、タクシー代がないって困ってたでしょ?」


「演奏旅行で少しもらえるから」


「律!」と言い争いしているうちに、カードを店員さんに渡してしまった。


「自分で稼いだお金で、莉里にプレゼントしたかっただけだから」


「…そんなもったいない」


「なくないよ。これで、ちゃんと化粧して」と律は言った。


 律が買ってくれたからもちろんちゃんと使うつもりだけれど、何だか申し訳なくなる。


「気にしないでよ。いつも莉里がしてくれたお礼だから」


「別に何もしてないよ」


「莉里はいつもおやつの大きい方をくれたり、泣いてたら一緒に寝てくれたり…。感謝してる」


 あの頃は律がかわいそうだという気持ちもあったけれど、誰かをお世話して、自分の淋しさを埋めていた方が大きかったかもしれない。


「それは…私が好きでしたことだから」


「でも…嬉しかった」


「ほんとうにかわいかったなぁ」とあの頃の律を思い出して呟く。


 転校したから友達のいない律は私が帰ってくると、嬉しそうに走って玄関まで来てくれた。それが私には嬉しくてかわいくて仕方がなかった。


「…今は?」


「今も…かわいい…けど、今は可愛いって言うより恰好良くなってしまって」


「それって嫌なの?」


「嫌じゃないけど、なんか急に大きくなったから…淋しい」と言うと、律がなぜか笑った。



 小学校を卒業して、声変わりが始まって、律は近寄って来なくなった。でも私が学校から帰ると、練習していたピアノを止めて、玄関まで来てくれる。それで一緒におやつを食べようと言うと、少し安心したような顔を見せてくれた。

 私は受験生だったから、夜は塾に行ってたし、律に淋しい思いをさせているとは思っていたけれど、高校に受かったら、二人でお出かけしたいとそんな能天気なことを考えていた。だから律がフランス行きを一人で決めた時は悲しかった。



 店員さんがカードと品物を渡してくれた。


「莉里、ありがとう」と律が言って、私に渡してくれる。


「ううん。なんだか…申し訳ない」


「あ、持った方がいいかな?」


「軽いし、いいよ。せっかく律がくれたから、私が持つね」


「おやつ食べに行こうか?」と律が言うので、私は頷いた。


 パリにいると、すぐに知人に会う。夏休みに旅行すると言っていた緑ちゃんとその一家と出会った。


 家族で百貨店に来ていたようだった。


「こんにちは」とぎこちない様子で挨拶をする緑ちゃん。


 隣には婚約者と思われる若い男の人が立っていた。その人に律を音楽院の先輩だと紹介している。


「こんにちは。いつもお世話になっております」と婚約者は律に挨拶をした。


「こんにちは。…えっと、緑ちゃんの?」


 下の名前で律が言うから、緑ちゃんは少し焦ったような顔をする。


「婚約者です。高山隼人です」


「そうですか。おめでとうございます。園田律です」と律は微笑みながら挨拶を返した。


「結婚指輪を見に来ました」と婚約者が何か言う度に緑ちゃんの目がきょろきょろしていた。


 ご両親もいたので、律は頭を下げる。


「あぁ、君が、園田君か。緑からピアノが上手いって聞いているよ」とお父さんらしき人が言う。


「いえ、そんな」と謙遜していた。


「日本に帰ってきたら、ホテルラウンジでピアノ弾く仕事があるから」とお父さんが言う。


 私はちょっと腹が立ってしまう。上から目線で律のピアノを聞いたこともない人が、と何か言おうと口を開けかけた。


「よろしくお願いします。ありがとうございます」と律は頭を下げた。


 その間、緑ちゃんは表情が硬いままだった。


「じゃあ、失礼します」と最初から最後まで大人の対応をする律が歩き始めた。


 私も頭を下げて、付いていく。でも腹が立って仕方がなかった。律のピアノを馬鹿にした態度と、そして律がそれに対してなにも言い返さないことも。私は一生懸命歩いて、律を追い抜かす。律の歩幅は大きいから、途中は小走りになった。


「莉里、何? どうしたの?」


 ヒールの靴で歩いていたから、少し足が痛い。


「どうして、あんなこと言われたのに」と振り向いて私が言うと、律が笑った。


「怒ってるの?」


「怒ってる。一度も律のピアノを聞いたことないくせに、あんなこと言うなんて。それを許す律にも怒ってる」と私は両手を握りしめて言った。


「いいんだよ。聞いたことないから。聞いた上で言われたらショックだったけど」と飄々とした口調で言う。


「私は律のピアノが好きだからそんなの許せない」


「ありがとう」


「ありがとうじゃないわよ。律は分かってない。もっともっと価値のあるものなのに」


 怒りで涙が出そうになる。


「…知ってる。でも莉里と俺が知ってるからそれだけでいいんだ」


「私は…みんなに知ってもらいたい」


 まるで子どもだ、と私は自分でも思った。律が笑いを堪えながら私に近づいてきた。


「…な、なに?」


「ハグしていい?」


「ハグ?」と私は驚いたけれど、律はゆっくり私をハグしてきた。


 律は笑いを堪えながら「大丈夫?」と聞いてくる。


「え? 何が? っていうか、ハグって何?」


「莉里が怒ってるのが…嬉しくて」


「何、言ってるの?」と聞き返したけれど、耳の横で言われた。


「ありがとう」


 その一言で、全てがどうでもよくなった。律の体温、柔らかく抱きしめてくれる温かさ。私が怒っても怒らなくても、きっと律のピアノの価値は変わらない。


「ううん。ごめん。怒って」


「怒ってくれて、嬉しかった」


「…うん。律、いつハグは終わるの?」


「終わった方がいい? 気持ち悪い?」


「気持ち悪くないけど…。道の真ん中だし…」


 そうここはパリだから誰が見ているか分からない。弟と抱き合ってるなんて「ハグしてただけだから」なんて説明がつかない。

 そう思っていると、腕を解かれた。


「律…」と呼びかけてしまった。


 視線が合う。私が守ってあげたいと思っていた弟は私より遥かに立派になっていた。前髪が風でさらっと揺れる。


「ごめんね。短気で」


「そうかな? でも俺のことで怒ってくれてなんか…嬉しかった」


「律のことは自分のことより頭に来る」と言うと、また律が笑い出した。


「莉里はやっぱり少しも変わってない」と言って、私が律が転校したてで帰り道、いじめられているところに箒を持って現れた話をし出した。

 

 私も覚えていなかったような話でなんだか恥ずかしくなる。


「莉里は…誰より守ってくれたから。今度は俺が守ってあげたい」

 

律の母はピアニストであり、私のお父さんと恋愛していたから、律のことはそんなに構っていなかったらしい。長期で実家に預けられることも多かったそうだ。律も同じようにずっと孤独だった。

 ずっと孤独な二人だから、…かもしれない。

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