第17話
つながり
律がウィーンに演奏旅行に行ったのと同時にお母さんから電話が来た。
「家は見つかったの?」
「えっと。今、探してて」
「まさかまだあの子のところにいるの?」
お母さんは律の名前を口にもしない。
「律は演奏でほとんどいないから」
「お金のことは気にしなくていいから、早く部屋を見つけなさい。私、来週、パリに行くわよ」と突然、そんなことを言ってくる。
私は慌てたし、困った。
「ちょっと、そんな…」と言った時には電話は切れていた。
途方に暮れていると、ブザーが鳴って、来客を知らせる。マシューの飼い主だった。
「預かってもらうのに、荷物を…」と言うので、私はマシューの飼い主に一か八か、お願いすることにした。
「お留守の間、一週間、お家を貸してもらえませんか?」
「え?」
私は自分の母親が来ることを伝えた。
「どういうこと? コーヒー飲みながら話を聞こうか?」と言ってくれる。
彼はアルビンという名前だと教えてくれた。旅行が好きなようでアルビンの部屋はいろんな置物が飾られていて、民族調なインテリアでいて、温かみがある部屋だった。
「ドアは開けておくからね」と言って、ドアを開けたままにしてくれる。
ここで、ドアを閉めてもいいと言っていいのかも分からずに私は頷いた。コーヒーと薄いジンジャークッキーを出してくれる。
「私、このクッキーのオレンジ味のが好きです」
「ほんと? お土産で買って来ようか」とアルビンは言ってくれた。
アルビンは穏やかな顔で私を見る。まったく違う国の人で、お互いを知らない人だかかもしれない。人柄も穏やかで、不思議と律と私の話をするのことに抵抗はなかった。
「じゃあ、弟とは異母姉弟なんだね」
「そうなんです。今度、来るって言ってるのは私の母で…」
「君のお母さんは…弟との恋愛関係を不安視してるってこと?」
「恋愛…関係…ですか?」
「え? そんなに引く話?」
「あ…えっと。なんか…姉弟では…ちょっと難しいというか」
「そっか。僕の国では結婚できるんだよ?」
「え?」
「姉弟でも片親が違う場合は結婚できる。…幼少期を一緒に過ごしていると姉弟間では恋愛関係にはなりにくいんだ。喧嘩したりして、お互いを嫌い…とまではいかないけど、恋愛に発展しない関係性になるんだよ。でも…長らく離れていた姉弟では互いに強く惹かれたりするのはよくあることなんだ」
私は驚いてアルビンを見た。
「気持ちは自由だから…」と微笑む。
アルビンに自分の気持ちを他の価値観で考えるのは辞めた方がいいと言われた。私は正直、どうしていいのか分からない。
「まぁ、目下の問題は君のお母さんだよね。部屋、よかったら使っていいよ。マシューを預かってくれるし…。マシューも慣れた家の方が落ち着くかもね」とアルビンは快く言ってくれる。
結局、マシューのトイレもそのまま使わせてもらうことにした。掃除方法や、餌の量や時間を教えてもらう。
「君…。夏休みの予定はないの?」
「短期で語学学校に通う予定で…後はスペインに行こうかなって」
「そっか。スペインは素敵な国だよ。食べ物もおいしいし」とアルビンはいろんな国に行ったらしくいろいろ教えてくれた。
「日本もいつか行ってみたいな」
「ぜひ…」と私は微笑んだ。
そしてお母さんがパリに来た。でも母はホテルを取っているらしく、ホテルまで迎えに行って、私の部屋を見ると言う。律の隣の部屋を借りることになったとアルビンの部屋を見せるとそれで納得したのか、すぐに出て行った。
「ここに泊まるのかと思った」
「せっかくパリに来たんだから、素敵なホテルに泊まるわよ」と言って、買い物したいから、とシャンゼリゼ通りに向かった。
有名ブランド店内で鞄を見て、憂鬱なため息をついている。
「買わないの?」と私が訊くと
「買うわよ。ただ…見せしめみたいね」とお母さんが呟いた。
「見せしめ?」と聞いたけど、それには答えなかった。
「莉里…あの鞄買うから、店員さんに伝えて」と通訳を頼まれたから、私はそのまま伝えた。
会計を済ませると鞄を預かってもらう。
「…お腹空いたわ」と言うので、二人でカフェに入る。
クロワッサンとカフェクレームというコーヒーミルクを頼んだ。
「あの子は?」
「演奏しにイタリアに行ってる」
律はウィーンから戻ってきて、しばらくして、またイタリアに行った後だった。
「そう」と言って、目を伏せた。
カフェクレームとクロワッサン、そしてシャンゼリゼというパリのアイコンが詰まったようだ、と私は思った。でも母はまるで何も見えてないようなうつろな目をしていた。
「ねぇ…莉里。私、一生、罰を受けることになるわね」
「え?」
「あの子の母親を…憎んだもの」
それは仕方のない事だと私は思う。私が母の立場なら、そうなるだろう。
「帰って来ないお父さんを待っていて憎らしく思うのはお父さん以上に彼女に対してだったの。綺麗な人だったし。気がおかしくなるくらい憎んだ」
私は黙って頷いた。
「そしたら、雨の日に…事故を起こしたって。突然だったのよ。毎日、毎日、いなくなればいいのにって思ってて。こんな形で願いが叶うなんて…ぞっとした。だから…罪の意識から…あの子を引き取った」
お母さんは辛そうに言う。
「…憎く思っている人がいなくなって…少しもすっきりできなくて…いろんな感情だった。もう…いない人なのに、私はまだ許せないの」
人々が足取りも軽く通り過ぎるシャンゼリゼのカフェで私は母の苦悩を見る。
「だから本当は莉里もフランスになんか行って欲しくなかった」
私は何の返事もできなかった。一番はお父さんが悪いのだけれど、離れられなかったお母さんにも原因がある。でもそれがもし私のせいだとしたら…といつも私は気持ちが塞ぐ。
「あの子と…仲良くしてる莉里を見て、あなたまで取られる気がして」
そう。私はお母さんを捨てられない。
それでも乾いた空気のここでは、母の話すことがどこかよそ事のように思えた。
(かわいそうなお母さん。そして私もかわいそうだった)
「取られるなんて。お母さんは一生お母さんだから」と言いながら、自分の裡に空洞を感じた。
明日は母の友達がパリに来るからといって、私はお役御免となった。ホテルまで送った後、一人で帰る。
部屋に着くとマシューが待ってくれていた。マシューは気が向いたら、私のところへくるけれど、大抵は来ない。ピアノの練習でもしようと鍵盤の前に座る。間違えた方法と前に律に言われたけれど、私には正解が分からない。ただ音を出すことはできた。窓から向かいのアパートを見ると、向こうの住人とまた目が合う。住人は男の人で、薄いシャツ一枚で微笑みかけてきた。私はぎこちない顔で微笑んでから顔を逸らした。九時過ぎても夕暮れにもなっていない。夏の夜は長すぎて、時間を持て余してしまう。来週から短期で語学学校に通う予定だったから、それが待ち遠しく感じた。
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