第16話
夜の散歩
バーに着いて、シャンパンと生ハムとメロンを頼む。結局、「今日は練習しない」と律も来てくれた。初老のジャズピアニストと則子さんが演奏している。
「則子さんのパートナーの知り合いだって」と律が耳打ちをする。
横並びで座っているので席が近いうえにさらに近くなったから、どきっとした。
「そう…なんだ」
「これ、別に音楽祭とは関係なくて、ただのバイトじゃない?」とさらに律が言う。
「え?」
「毎週、バーにバイトしに行ってるって言ってたし」
「そうなの?」と思わず、律を見ると、いたずらっぽい笑顔を浮かべた。
「…いいカモにされたね」となぜか楽しそうに言う。
「…別に、それは…いいけど」
ジャズを聴きに行くなんて、日本でしようと思うこともなかったから、嫌な気持ちはしなかった。
途中で、則子さんがチップを集めに来たから、十ユーロ入れる。
「来てくれたの? ありがとう」と小さな木箱を嬉しそうに抱える。
「莉里を誘ったってことは俺からもチップを取るつもりだな」と律が言う。
「まぁ、それはお気持ちだからね」といたずらっぽく笑う。
憎まれ口をたたきながらも律も同じ額を入れた。
「また来てねー」と則子さんは笑って、次のテーブルに行った。
日本にはないシステムで、不思議な気持ちになったが、チップで結構な金額になると言う。
「彼女のピアノ…よかったんだけどな」と律は呟いた。
「え?」
「もともとピアノで留学してたんだ。すごく透き通ってて…よかったのに」
律は軽く頭を振って「もう出よう」と言った。
明日、予定があるのか、と思って、何も言わずにお店を後にした。タクシーを捕まえるために大通りまで出る。スタートが遅かったので、店を出ると、もう地下鉄は終わっていた。
「則子さんのピアノ辞めた理由を知ってるの?」
「さぁ。本当は本人しか分からない。でも…もったいないって思ってる。気持ちは分からなくないけどね」
「分からなくない?」
「怖くなる。本当にこれでいいのかって。このままやっていてそれでいいのかって。ピアノ留学する人も多いし。それは日本人だけじゃなくて」と律は呟くように言った。
「律も? 不安?」
「少し…」
私は驚いて足を止めた。今日見た律は生き生きしていて、楽しそうに見えたから。律も少し先で足を止めて、振り返った。
「でも莉里が来てくれて、頑張ろうって思えたから」
律がどんな思いでここにいるのか、少しだけ教えてくれた気がする。
「本当に来てくれて、ありがとう」
「律…。何でもするから言って。私…」
律がちょっと困ったような顔で
「何でもするとか簡単に言わない」と言った。
「だって、私…律に救われたから…」
「じゃあ、家まで歩いて帰ろう?」
「家まで?」
「うん。手をつないで、家まで」
「え?」
「運動しないと」
よく分からない言い訳を言われて、私は差し出された手をつないで、歩くことにした。パリは案外小さな町なので、一時間半くらい歩けば家に着く。手を繋ぎながら懐かしい思い出を話したり、綺麗な夜景を見ながら歩く夜道は特別な時間だった。知らない世界で、たった二人っきりな気持ちになる。
「歩いて帰るのも楽しいね」
「莉里…実はいろいろお金使っちゃって、タクシー代なかったんだよね」と舌を出す。
「もう。そういう時はお姉ちゃんにちゃんと言いなさい。タクシー代くらい出すから」
「その代わりに…挨拶したい」
「挨拶?」
「フランス式の」
「え?」と思っていると、律に頬と頬を当てられた。
ふわっと柔らかい感触が両頬を掠めた。
「嫌じゃない?」と律が心配そうにのぞき込む。
「…嫌じゃないけど」
蛙化現象を起こした私を気遣ってくれたのだろうか。一瞬だったし、フランスでは当たり前のことだし、と私は思いながら、律を見ると、頬が赤くなっていた。チークが移ったのか、と思ったけれど、
「なんか…恥ずかしい」と律が顔を手で覆った。
「何それ?」
律は他の女の子ともっとすごいことしてるのに…と思ったけれど、言えなかった。
「莉里の頬が柔らかいから」
そんなことを律に言われて、嬉しくないわけなかった。でもこの気持ちが何なのかはっきりさせない方がきっといい。
「フランスの挨拶って…淋しくなくていいね」とだけ私は言った。
「うん」
律の側にいて、私は淋しさから逃れられる気がしていた。あの頃も、今も。
見上げる夜空は日本で見るのと同じで、縁取るパリの建物のグレーの屋根がフランスにいることを実感させてくれる。
「律…今日は本当に素敵だった。ありがとう」
「うん。もっと頑張るから…楽しみにしてて」
神様。
どうか、ほんの少しの間だけ、彼と私に安らぎをお与えください。
こっそり、ささやかな願い事をした。
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