第15話
何も、何より、何もかも
お昼を食べようと言う割にレストランに入る時間はないらしく、ケバブを買って、公園の椅子に座る。揚げたてのポテトが熱くて美味しい。ただ「美味しいね」と言いながら、私はケバブを食べる。律の好きな人について考えるのが怖かった。
「莉里?」
「何?」
「悲壮の二楽章と、ノクターンとどっちが好き」
「どっちも…好きだけど…。私はベートーベンの方が好き…かな」
「そっか」と言って微笑む。
私は律をじっと見た。
「何?」
「ううん。…律はピアノ頑張ったんだね」
「え?」
「則子さんがそう言ってた。あ、則子さん、バーで演奏するって。終わったら言ってみようかな」
「一人で?」
「うん。友達いないし…」
「そっか」と黙ってケバブをかじる。
本当は一人でパリのバーに行くなんて、何だか怖くて、律に付いてきて欲しいと思った。でも言えなかったし、律もそれ以上言わない。
「莉里…ソースついてる」と私の口の端を指で拭った。
どっちが姉だか分からない。
「律だって…」と手をのばしかけた時、切ない顔で見られて、視線を逸らされた。
口元のソースを律は自分で拭った。
「気にしないで欲しい」
「…何のこと?」
「みんながあれこれ言うけど…」
「律のこと?」
「別に恋愛しにここに来てるわけじゃないし…」
私は頷いた。律はここで真剣に音楽に向かい合っている。それは間違いない。
「分かってる。律は一生懸命ピアノを練習して、音楽を勉強してること…」となぜか泣きたくなった。
「…莉里は気にせずに好きなことして」
じっと見つめられて、言葉を探したけれど、何も出てこない。
「勉強も…恋も…。自由にして欲しい」
風が吹いて、光が眩しい六月。目の前を犬を散歩させる老婦人がゆっくりと通り過ぎる。
「莉里が幸せだったら…いいから」
返事が必要ないのか、ただ微笑んで、空を見上げていた。
「ただちょっと悔しいなぁ」
「何が?」
「ピアノ…じゃなくて、オルガン回されたの。俺の方が予約してたの早かったはずなのに。もっと有名なやつのところにピアノ…行ったんだよ。いつか…俺のところに頼まなくても、スタンウェイでもベーゼンでも運んでくれるようにならないとね」と私を見る。
逆光の律の笑顔が綺麗で眩しすぎて涙が出そうになる。
「律ならきっと大丈夫だよ」
「莉里がそう言ってくれるから、頑張る」
こんなに頑張っている彼に何を言ってあげれるのか分からない。午後の明るい陽射しが律の輪郭を縁取っていた。
公園のガゼボがステージになっていて、アップライトの小さなピアノが運ばれていた。演奏が始まる。簡易の椅子はすでに埋まっていた。チェロとバイオリンとビオラとピアノのピアノカルテットで楽しそうに演奏している。私はそれを見ながら、律が言った言葉、杏さん、則子さんの言葉を考えていた。
『日本にいる好きな人がこっちに来るから…って断られてるんですけど。あなたですか?』
『急に全ての女の子との付き合いを一月前に辞めたんですよ』
『それって…お姉さんが来るからだったんですね』
(律が私のことを好き?)
(まさか)
『莉里が幸せだったら…いいから』
ガゼボでピアノを弾く律は美しい。
私は律に言ってないことがある。
(どうしてフランス語を専攻したのか。もちろんミーハーな私がフランス好きだったというのもある。でももし、あなたがウィーンに行ってたら、ドイツ語を専攻してた。もしロンドンだったら英語を勉強してた。
あの日、別れ際にキスされて、私はただ見送るだけだったあなたに会いたかった。
会って謝りたかった。
あなたに癒されてたのに、私はあなたを守れなかった。
今度こそ心から…大切にしたくて。
『どうしてここに来たの?』と言う問いの答えは
『あなたに会いたくて来た』だった)
律たちはまた違う曲を始めた。私は詳しくないから、誰の曲でどんな曲か分からないけれど、みんな気持ちよさそうに聞いている。私はずっと律だけを見ていた。
曲が終わって、メンバーたちは楽器を片付ける。それを見て、観客は去っていった。律が私を手招きした。
「何?」
「座って」
空席になった簡易の椅子に座ると、律が悲愴の二楽章を弾いてくれた。ホールのような響きはなくて、空気に吸収されてしまうような音を紡いでいく。でもその音は昔と変わらなくて、一つ一つ弾けて綺麗な色になる。優しく語りかけるような音で泣きたくなる。
私のためだけに演奏してくれる。その音に胸が締め付けられそうになる。
律がしてくれること、全て、私のためだと理解する。
穏やかで優しいメロディに私は涙が零れた。
曲が終わって、律が驚いたように私を見た。
「莉里…」
慌てて涙を拭いて「素敵だったから」と言う。
「…ありがと。莉里がそう言ってくれて、一番、嬉しい」と照れたように笑う。
何より私のことを思ってくれる律に私は何を返せるのだろうと思いながら、微笑んだ。
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