第14話

フェット ド ラ ミュジック


 朝から律がバタバタとしていて、忙しそうだ。今日は音楽祭の日で、いろんなところで音楽を演奏したり、聞けたりする。律も公園とマルシェで演奏すると言っていたから、私は洗面台の使用権を律に渡して、台所に向かう。朝ごはんの準備を始めた。電話をしながら着替えつつ

「ピューターン(くそ)」と汚い事を言ったりしてる。

 私はちらっと律を見たけれど、口を挟まなかった。今日はおにぎりを作った。塩だけのおにぎり。鍋でご飯が意外と簡単に炊けることが分かって、私は塩を振りかけて、おにぎりを作る。後、レンジで卵焼きも作れるレシピがあるので、試してみた。不器用な私はこっちの方が上手く作れそうだった。


 かなり揉めていたみたいだけれど、話が終わって、オールバックに髪の毛をセットし終えた律に

「どうしたの?」と聞いてみた。


「借りる予定だったピアノがないって言われた」


「ないの?」


「ないって。…こういう事、ほんとよくある」と舌打ちした。


「じゃあ…律は…でないの?」


「出るよ。他の楽器で」


「え? 何ができるの?」


「交渉の末にオルガン貸してくれるって」


「オルガン…。まぁ、似たような…もの? なのかな?」


「もう…」と怒っている律がちょっとおかしくて、私は笑ってしまった。


 律に睨まれたので「ごめんなさい」とすぐに謝った。


「美味しそう」と膨れた顔でテーブルに座っておにぎりに手を出す。


「ちゃんといただきますして」


 言われた通り手を合わせて言ってくれるから、やっぱりかわいい弟だ、と思う。


「味噌を買えなくて、お味噌汁ないけど」


「いいよ。別に。これで十分。だってフランスでは朝、食べないから」


「そうなの?」


「コーヒーとかそんなもんだよ」


「そっか。コーヒーいる? おにぎりだけど」


「ううん。…莉里。ありがとう。今日は…見に来てね。公園ではちゃんとピアノ用意されてるから」


「分かった。マルシェも公園も両方行くからね」


 そして律を見送ると、私も用意を始めた。


 マルシェはいつも賑わっているけれど、ひときわ人だかりができている場所から音楽が聞こえてきた。「パリの空の下で」がジャズにアレンジされて流れている。人の間をぬって近づくと、律がオルガンを弾いていた。そのほかにもバイオリン、コントラバスで則子さんもいた。

 こんな青空の下で音楽を聴くことがあるなんて、ここにくるまで思いもしなかった。気持ちが明るくなる。曲が終わるごとに人が入れ替わり立ち代わりするので、その度に少しずつ前に進めた。

 律は不満そうだったけれど、街角にはオルガンの音が良く似合っていた。私は最前列で律を見ながら、則子さんから聞いていた律には好きな人がいるということを思い出していた。

 律の好きな人がここにいるかもしれない。そう思うとそわそわしてあたりを見回す。フランスで出会ったから、フランス人かもしれない。告白したら、律ならすぐ上手くいきそうなのに、と思った時、胸が少し痛くなった。

 淋しさはあるけれど姉として応援しなければ、と胸に拳を当てた。

 タイミング悪く律と目が合って、微笑まれる。世界の光がワントーンアップした。


 演奏が終わって、みんなが片付けているのに、律が私のところに来た。


「来てくれたんだ。なかなか来ないから心配してた」


「最初は後ろの方だったから」


「オルガンは片づけなくていいの?」


「業者の人が運んでくれるから、特にやることない。次は公園だけど、時間あるからお昼ごはん食べない?」


「え…みなさんは?」


「みなさんはまた違うところに行くから」


「そう…なんだ。じゃあ、ご飯食べる? でも挨拶だけ」と言って、私が舞台に目をやると、則子さんが軽く手を挙げた。


「こんにちは。とっても素敵でした」


「ありがとー。園田君はちょっとかわいそうだけど」と則子さんが楽器をしまってこっちに来た。


「全然。別に」と律は横向いて言う。


 バイオリンの女の子もこっちに来た。私は則子さんにアイコンタクトで聞いてみると、頷いた。


(あぁ、律はこの子とも関係が…)とため息が出る。


「もしかして、園田君の言ってた日本にいる好きな人?」と直接私に訊く。


 律を見上げると肩を竦めた。


「園田君が日本にいる好きな人がこっちに来るから…って断られてるんですけど。あなたですか?」と私の方に身を出して来た。


「え? あの…」と首を横に振って、説明しようとした。


「そんなこと…姉弟《きょうだい》には言わないし」と律はバイオリンの女の子に言う。


「え? きょう…だい?」と乗り出した身を引いて、もう一度私の顔を見る。


「あ、そうです。姉です。あの…いろいろお世話に…」


「いえ。こちらこそ。お姉さんですか。てっきり…園田君の好きな人かと思いました」


(好きな人が日本から来る?)と私はさっきの台詞を考えつつ、彼女にも謝らなければいけない気がした。


「律が…ご迷惑をおかけしてないですか?」


「迷惑だなんて…」とバイオリンの女の子は恐縮した。


 彼女は杏《あん》と言った。海外の人も呼びやすい名前だ。


「素敵な名前ですね」と私は思わず言った。


「えぇ。名前を付けるとき、親が海外でも通用するようにって考えてくれたんです。うちの親も音楽してて。チェロですけど…音大の教授してます」と言う。


 海外に出たら、顔が広くなる理由も分かった。律の方を見ると、顔を背けられた。


「私、園田君のこと好きなのに、全然振り向いてくれなくて」と杏ちゃんは私に言う。


 杏ちゃんは気の強そうな顔立ちだが、整っている。


「だからバイオリン頑張って、いい演奏家になったらこっちを見てくれるかなって頑張ってるんです」


 こんなにまっすぐに気持ちをぶつけられても、律は少しも動揺せずに


「ごめんって。しばらくは誰とも付き合わないから」と言った。


「どうして? 遊びでも?」


「もう、それもやめたから」


 二人で言い合いしているので、私は則子さんの方に少しずつ動いて話しかけた。


「素敵でした。コントラバスってすごく大きいんですね」


「そう、まぁ、ピアノも大きいから、私は大きい楽器が好きなのかも」と笑う。


 そうは言ってもコントラバスは大きすぎるから、移動が大変そうだ、と私は思った。


「園田君…。急に全ての女の子との付き合いを一月前に辞めたんですよ」


「え? 全ての? つまり…同時に何人も付き合ってたんですか?」


「付き合ってたっていうか…セックスしてただけだと思うけど」


 私は目の前が真っ暗になりそうだった。口を開けたものの、言葉は出なかった。


「それって…お姉さんが来るからだったんですね」


 一瞬、時が止まった。


(私が来るから? 好きな人が来るって…言ってたけど)


「そんなの…。断る理由…にならないですよね」


 慌てて口に出す言葉はちぐはぐで、何を言ってるか自分でも分からない。


「え?」と聞き返す則子さんに「私の前でいい子ぶろうとしたって、結局、こうして…」と呟くと、則子さんは笑った。


「お姉さんにいい子ぶろうとしたかはわかりませんけど…」と前置きしてから「変わろうとしたんじゃないですか?」と言った。


「変わる? …不真面目でしたか?」


「それはないですよ。音楽に対してはだれよりも努力家で貪欲です。ただ…恋愛に関しては…」


「ルーズ?」


「いいえ。私が見える彼は…諦めてました」


「諦め?」


「誰と付き合っても、何も変わらないって思ってるんじゃないかなって。彼を見てると、そもそも誰かとの関係を諦めてるのかなって…。もちろん直接は聞いたことないですけど」


 律の好きな人は…どうして律を好きにならないのか…。そもそも誰のこと…と考えていると、律に呼ばれた。


「あ、じゃあ、頑張ってくださいね」


「夜にバーで弾くんで、よかったら来てください」とバーの名刺を渡された。


「あ、はい」と言って名刺を受け取る。

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