第13話

大人になれない


 マルシェで蜂蜜を買い、パンにつけてもヨーグルトと食べても美味しいだろうと私はウキウキした気持ちで帰路に着く。マルシェは新鮮な食材が多いから卵とハム、そして野菜も少し買った。みんな大きな袋や籠を持ってきている。私もカゴが欲しくなった。


 一階でエレベーターを待っていると、マシューを肩に乗せている大柄の白人男性が降りてきた。見上げるほどの人だったので、大猫マシューが肩にすっぽり収まっていた。


「マシュー!」と思わず口走ったら、その男性がにっと笑った「ボンジュー」と挨拶をしてきた。


 私も挨拶を返して、昨日、マシューを踏みつけたことを謝った。


「大丈夫だよ。じゃあ、君はピアニストの家に住んでるの?」


「はい。そうです。彼の姉です」


「あぁ、そうなんだ。彼、いつも一人でピアノ弾いてたから…マシューが心配して様子見に行ってたんだよ」と言うと、偶然なのか、マシューは相槌を打つように鳴いた。


「あのさ…。バイトしない?」


「え?」


「僕、故郷のスウェーデンに夏休み帰ったり、旅行したりするんだけど、マシューを二週間預かってくれないか? 大学の心理学の教授してて、残りは学生が面倒見てくれるんだけど、どうしても最初の二週間だけ、誰も見てくれなくて」


「あ…。えっと…。弟にも聞いてみます」


「そうしてくれたら助かる。じゃあ、またね」と言って、アパートから出ていった。


 降りてきたエレベーターはまた誰かが呼んだのか、上へあがっていった。



 ようやく部屋に戻り、私はサラダとオムレツを作って、律を待った。マルシェで思いがけず時間を取られてしまったので、律はすでにレッスンに行った後だった。テーブルにご飯を並べて、私は少しハムをつまみ食いして、ぼんやりとする。

 どこもかしこも日本とは違う景色で、匂いも違う。窓から通りを眺めると、道の横には隙間なく縦列駐車されている車の列があった。

 マシューもお出かけして、律もいないこの部屋は静かだった。私は律のソファベッドでうとうとしていた。律の匂いがするなぁと思いながら、男の子なのに いい匂いがする、と思って目を開けると律が横で座って楽譜を見ていた。


「おはよう」


「おかえり…」


「お昼、作ってくれたんだ」


「うん。簡単なものだけど」


「冷めちゃったね。ごめん。レッスンが長引いて」


「ううん。私の方こそ、遅くなってごめんね。マルシェで…緑ちゃんと則子さんに会ったの」


「へぇ。あの二人が一緒なんてね」


「…律。ごめんなさい」


 律は驚いたような顔で私を見た。


「私は…何も分かってなくて…。律がどれだけ努力してるか…我慢してるとか…何も分かってなくて。それで…昨日は分かってるようなこと言って…ごめんなさい」と俯く。


「何か言ってた?」


 律の声は思ってた以上に明るかった。


「緑ちゃんが有名ホテルの娘さんだって。だから律が…彼氏役をしたって…」


「聞いたんだ。…将来のために丁重に接しておかないとね」と軽く笑う。


 でも私は何だか許せなかった。律にそんなことをさせてしまって、それを知らないままの私が。体が憤りで震えそうになる。


「…そんなこと…しなくていいのに」


「莉里。もう大人になったんだよ? 何も知らない子供じゃないんだ。可能性のためなら…別に」


 顔を上げて、律を見ると、優しい顔で笑っていた。本当に律は私より大人になっていた。私は今でもあの頃と同じで結局何の助けにもなっていない。たった一人で出ていく律に何もできなかった自分を後悔したというのに、今も同じだ。


「それに…こんなこと、どうってことない」


「え?」


「俺にとってなんでもないことだから」


「…律。私、何もできないけど、応援する。ピアニストになれるように。ちゃんとご飯作ったり、もっとフランス語上達させて、通訳したり…。律が望む人生を歩けるように…私のできること全部…」


 律になら全部、投げ出してもよかった。私の持っているもの全て持っていって欲しいと思った。ただ自分が持っているものが本当に貧相で申し訳ないけれど。


「ありがとう。莉里が来てくれてよかった」


「本当?」


 私は大したこと何もしていないのに、と思ったけれど、そう思ってくれるのは嬉しかった。


「莉里が心配してくれて…少しは自分に価値がある気がしたから」


「そんな…律はいつも…綺麗で」と言いながら、今、目の前にいる律があの頃の淋しそうな幼い顔と重なった。



 私は慌てて話を変えようと、マシューのお世話を頼まれた話をした。


「いいと思うよ」


「じゃあ、預かるって言うね」


「うん。まぁ、俺、いない期間だけどね」


「え?」


「ほら言ったでしょ? 演奏しに行くって。スペインは行くんだよね? 後は留守番するの?」


「うん。短期で夏のフランス語講座を取る予定だから」


「頑張って。莉里はフランス語で何したいの?」


「えっと、通訳とか翻訳とか…。でも今はAIがあるもんね」と私は少し将来について憂いた。


「フランス語勉強しなよ。その後、考えたらいいんじゃないかな」


「うん。今はできることを一生懸命やるしかないね」


 私は大人になった律に慰められた。背丈だけじゃない。辛いことも我慢して、律は私より遥かに大人になっていた。


 でもどこかまだあの頃の律がいる気がした。

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