第23話

長い旅



 赤紙が来た時の衝撃は今まで感じたことなかったほど、大きかった。今までは大学生は免除されていたのに、文系の学生に限り召集されることになった。


「あなた…」と私は震える声で夫を見る。


「…用意をしなければ」とだけ言った。


 召集までたったの一週間だった。慌ただしく準備をして、そして戦地に向かう。二度と会えなくなるかもしれないという不安で倒れそうになった。


「おい」


「…すみません。大丈夫です」とは言ったものの、私はその場に座り込んでしまった。


 本を読むのが好きだった博さん。こんなことなら、理系の方へ無理にでも進めさせればよかった。


「お国のためだ」と夫に言われる。


 私はどうしてもそんなことを言えなかった。


「琴さんとは…」


「博が婚約を解消したいと言ってる」


「え?」と私は夫の顔を見た。


 まるでそれはもう帰ってこないことを覚悟しているようだった。


「そんな…。だってあの子は」


 本当に好き合っている二人だったのに、と私は何も言えずに俯いた。




 その日の夕方、琴さんが川上さんと家までやって来た。二人はまだ出かけていて留守だった。玄関先で縁談をそのまま進めて欲しいと言う。


「え?」


「急だが、結婚式を挙げさせて欲しい」と川上さんから頭を下げられた。


「そんな…」


「どうかお願いします」と琴さんも横で頭を下げている。


 とりあえず、二人を招き入れる。


「こんな時代です。どうか娘の願いを叶えてもらえませんか」と川上さんが頭を下げる。


「お待ちください」と私は慌てて、顔を上げてもらった。


 生きて戻ってくるかも分からない息子の嫁になると言ってくれているのを無碍に断ることもできないが、と思案していると、夫と博さんが戻ってきた。


 そして夫と川上さんが話合って結婚式を急いですることになった。私は驚いて、琴さんを台所へ呼ぶ。


「あのね…。琴さん」と私は言葉を詰まらせた。


「お母さま。私、とっても嬉しいんです」


 かわいらしい笑顔を向けてくれるが私は胸が痛んだ。その笑顔に私は何と言ってあげられたらいいのか分からないが、まだ少女である彼女は私よりも覚悟を決めているのだと分かった。


「…ありがとう。琴さん」とだけしか言えなかった。


「そんな。お母さま。嬉しいんですよ」


「そうね。お祝いですからね。急いで支度をしなければいけませんね」


「はい」といいお返事を相変わらずしてくれる。


 私は琴さんの手を取ってもう一度「ありがとう」と言った。


 その手を取って分かった。ちいさく震えていた。




 美しい花嫁姿だった琴さんが学徒動員で出向いた先で亡くなったと聞いたのは暮れのことだった。私は川上家に出向いた。


「ご愁傷様です」と頭を下げる。


 琴さんに似たお母さんが、家の中に入れてくれた。


「…こんな時代ですから…」と自分で言い聞かせるように言った。


「えぇ。でも」


「本当に良かったです」と畳の縁に視線を落としながら言うので、私は驚いて彼女の顔を見た。


 目が落ち窪んでいて、もう涙一粒も出ない様子だった。




「博さんと結婚式もあげられて。本当にあの時、よかったです。僅かな時間でしたけど、あの子は幸せそうでしたから」


「そんな。こちらこそ…博さんも本当にありがたく思っています」


「博さんは」と聞かれたが「それが…便りもなくて」と私も視線を落とした。


「こんな世の中…」と呟く。


「奥様…」と私は慌てて声をかけた。


 物騒なことを言わないかとひやひやした。家の中だから大丈夫かとは思うが、憲兵に知られたら恐ろしいことになる。


「琴は…頬がふっくらしていたのに、頬がこけて、腕も骨と皮になっていて、手もあかぎれで…爪も割れてて…」と言った。


 愛らしかった姿はあまりにも変わり果てていたようだった。


「寒い…。暖房もないところに置かれて」


 私は想像するだけで、涙が溢れた。あの愛らしい琴さんの最後がそんな姿だったなんて、と。


「奥さん。何のために生きてるんでしょうね。私たち…。何のために子どもを産んだんでしょうね」


 私は彼女に「お国のため」とは言えなかった。


 ただ涙を流すことしかできなかった。




 私が亡くなった日は天気のいい春の日だった。昼間に空襲警報が鳴り、私は慌てて逃げる用意をした。長男と夫は勤労奉仕に駆り出され、三男は疎開していて、家には私一人だった。博さんから便りはなくて、私は夫と長男が「駄目だろう」と二人で話しているのを聞いていた。


 琴さんも亡くなり、博さんも…。私はどうして生きようとしているのだろう、とぼんやり思いながら、防空壕まで歩いていた。目の前を足の悪い近所の女の子が必死で歩いている。家族に置いて行かれたのだろうか、と思っていると後ろからグラマン戦闘機が迫ってきた。低空飛行からの機銃掃射が走った。


「あ」


 振り返って見ると、飛行士と私は目が合った。


 だからか私を打たずに、前をゆっくり歩いている女の子を狙った。咄嗟に私は飛び出した。


(殺して)


 彼女を抱きしめるようにして倒れ込む。小さな女の子は驚いたように、でも息を潜めた。


 私は琴さんも博さんも守れなかった。ただ阿呆のようになにもせずに見ていただけだった。最後ぐらいは誰かを守りたいと思った。


 耳が裂けるような音が連続する。土ぼこりが立ち上がり、小石が降り注ぐ。そして何発もの玉が私の体を撃った。


 痛みと血の温かさ感じながら、次第に視界が暗くなっていった。


(終わった)


 春の匂いの風が土ぼこりで身体を撫でていく。


 不思議だったが、ただそれだけだった。




 眩しい光に目が慣れない。


『お母さま』


 愛らしい声が聞こえる。目を何度も瞬きして、光に慣れさせる。


 私の目の前にコトちゃんがいる。


「コトちゃん?」


『はい。あのね…。私も同じ』


「え? 何が?」


『星さんを守れなくて、悔しかったの』


「あなたはまだ子供だったし…そんなこと…」


『うん。だから…早く大人になりたかったの』


 あぁ、いつもそう言ってたな、と私はぼんやり思う。


『それで今度は私が星さんを守れるように、早く生まれて…星さんを育てようって』


「え? そう…決めてたの?」


『二度と戦争になんか行かせない』とコトちゃんははっきり言った。


 それは私ができなかったことだ。不甲斐なさに私は潰されそうになる。


『あとね、オプションで、お母さまともう一度…お母さんになって欲しくてお願いしたの』


「え? どういうこと?」


『聖ちゃんと母娘になりたいってこと』


 不思議な気持ちになった。そうだ。私はこの子に会った時から、可愛くて、どうしようもなく気になっていた。いつもなら幽霊をついている人に関わろうとはしないのに。


「コトちゃんと母娘に?」


『そう、前は本当に短かったから』と微笑む。


「星さんは…」


『星さんはいろいろ哀しい経験をしたから…もう少し時間が必要なの。聖ちゃんはもう結婚も子供も欲しいなんて思わないって…そう思ったでしょ? だから恋愛にも興味を持てなかった』


 コトちゃんはまるで私の気持ちを見透かしたように話す。


「恋愛に…興味が持てなかった…理由」


『そう。大事にしていた子供を失って、私のことまで子どものように思ってくれてたからなおさら…。すごく辛かったみたい。でも…だから、オプションで私、また母娘になりたいってお願いしたの』


「…私のために?」


『ううん。私が好きだったから。優しくしてくれて、キャラメルももらって…。自分のお母さんと同じくらい好きだったから』


 私は顔を手で覆って泣いた。


 星さんの母親は私だった。


 いろんなことが繋がっていく。


 星さんを見て、愛しいと思う気持ちは我が子に対する想いだった。


「じゃあ…」と私が言うと、その場に星さんが現れた。


『お母さんの手料理、おいしかったです。かぼちゃの煮つけ…』


 私は自分が理解していないまま、母親の役目を果たしていた。


「え? 星さんは分かってたの? 私がお母さんだって」と聞くと、首を横に振った。


 成仏してから、いろんなことがはっきり思い出されたと言う。


「じゃあ…次はコトちゃんの子どもとして?」


 二人はにっこり笑って頷いた。


『あなたがそうしてくれたように…』と星さんが言う。


『お母さまがそうしたように大切に育てます』とコトちゃんが言った。


 私は二人が決めたことだからと頷いて、そして涙が溢れて止まらなかった。悲しい感情とは違っていて、全てが清算された気がした。




 白い天井がぼんやり見える。私は長い夢を見ていた。それが真実なのかどうか分からない。曖昧な記憶の中でぼんやり浮かぶ景色はやけにリアルだったけれど、それもふわふわと消えていきそうだった。


『早く大人になりたい』


 いつもそう言っていたコトちゃん。私は健気な子どもだなぁと感心していたけれど、もしかしたら本人も分からないまま、でもそれは星さんのためだったかもしれない。


 目が覚めても私は涙を零し続けた。


「そっか…。コトちゃんと母娘に」


 ずっと抱えていたものが胸から落ちた気がする。朝日が眩しくて、私はその白い光の中で涙を零し続けた。


 長い旅が終えたような安心感が心を満たしていった。

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