第22話

遠い空



 お風呂に入っても、特に何の変わりもない。ただ、携帯に川上さんからのおやすみなさいメッセージが届く。気恥ずかしいながらも、返しておく。そう言えば、デートもしたことない、と思ってぼんやりしていると、次にデートの誘いのメッセージが届いた。


「え?」と思わず声が出た。


 どうやらコトちゃんが気を利かせておばあちゃんの顔を見て来ると言って、二三日、実家に泊ると言うのだ。


「近場で二三日、旅行に行きませんか」というメッセージをじっと見てしまう。


 自動的にスリープするまで眺めてしまった。まるで既読無視だ、と慌てて「はい」とだけ返しておいた。


(そう言えば…キスもしていないどころか、手もつないでいない)


 どうしていい分からなくて、床にゴロゴロしてしまう。


(結婚するまで何もしないと思ってた)


 ぱたと、大の字になって天井を眺める。


(明治時代か…)


 自分で突っ込みながら、どうしたらいいのかと十子さんに連絡したくなるが、時間を見てやめておいた。


 明日の話じゃないし、また相談する時間はあるだろう。起き上がって、髪の毛を乾かして、私はベッドの中に入った。うとうとしていると、ふと星さんの気配を感じた。


「あれ?」と壁を見ると、私を見ている星さんがいた。


(え? まだそんな…ところに?)


 何か伝えようと思ったけれど、瞼が重い。


(早く…生まれ変わらないと)


 声に出したいのに、声もでないくらい目が開かなかった。




 私は目の前にいるかわいらしい少女を眺めている。夫の友人のお嬢さんで、今年、国民学校高等科を終了し、来年女学校へ通うらしい。きちんと背筋を伸ばして座っている。


「博の許嫁にしてもらった」と夫は嬉しそうに言う。


「まあまあ」と私は驚いたけれど、少女は頬を染めてお辞儀をした。


「川上 琴です。よろしくお願いします」


「あら、そんな…。まあ、ご挨拶できて…」と私の方がうろたえてしまう。


「博くんなら間違いない。なんせ優秀だから」と夫の友人、川上さんが言った。


 そう褒められた博さんは黙って正座している。わが息子ながら端正な顔立ちではあるが、女の子と上手く話せるのだろうか、と母親として心配になる。


「琴さん…。ちょっと」と私は台所へ少女を呼んだ。


「はい」といいお返事をしてすっと背を伸ばす。


 台所の棚からキャラメルを取り出して、琴さんに渡すと、まだあどけない少女は嬉しそうに微笑んだ。


「今、ここでお食べなさい。キャラメルは男の人たちには内緒よ? ところで博でいいの? 悪い子じゃないけど、愛想がそんなにいいとは思えないのよ。三男の方がまだ愛嬌があるわ」


 私は男の子しか産まれなくて、この愛らしい少女が可愛くて仕方がない。


「星さんは…とってもお優しいです。お勉強お教えてくださいました」


「まぁ、星さんって呼んでくれてるの?」と喜ぶと琴さんは頬を赤らめる。


 まだ少女だと言うのに、とは思ったものの、こんなに可愛い少女が家の嫁になってくれるなんて、嬉しくて仕方がない。長男は大学に行ってて、下宿している。どうやら下宿先の娘さんが気になると言うようなことを話していて、


「恋愛結婚なんかみっともない」と夫はいつも怒ってはいるが、長男は言うことを聞かなさそうだった。


「私も星さんのお嫁さんになるのが楽しみです。頑張って、お手伝いできるようになりたいです」


 なんて可愛いんだろう、と私の目じりは下がりっぱなしだった。そこへ博さんが来て


「母さん…。琴さんに何か用事ですか?」と聞く。


 キャラメルは内緒と言った手前、私も言い出せないし、琴さんも目を泳がせている。


「そうそう、あの…羊羹でも…と思って。でもいいわ。あなたたち、散歩でもしてなさい」


「どこを散歩するというのですか」と博さんに言われる。


 夫婦でもない男女が外を歩くなんて、確かに今の時代は無理だった。


「映画とか」


「母さん」と博さんに怒られてしまう。


 映画なんて不良が行くところで、ましてや照明の暗い映画館なんて男女で行ってはならない場所だ。


「あぁ、つまらない世の中になったわね」と私はため息をついた。


「部屋でゆっくりしてもらっていいですか?」


「ええ。そうなさい。後で羊羹を持っていくから」と私は博さんに言う。


 意外なことに、あの堅物な博さんも琴さんを気に入ってるようだった。琴さんは私に頭を下げて、博さんの後をついていった。


 ちょこちょこ歩く後ろ姿も本当に可愛い。私は琴さんがお嫁に来てくれる日が楽しみで、待ちきれなくなる。


 居間に戻ると、夫と川上さんが楽しそうに話をしている。私は切った羊羹とお茶を出す。


「奥さん…琴をよろしくお願いしますね」と川上さんが言う。


「えぇ。あんな可愛いお嬢さん…本当にいいんでしょうか?」


「外ではあんな風ですけどね。家ではなかなかのお転婆ですよ」と言って笑う。


「博は静か過ぎるから丁度いいな」と夫も笑う。


「博さん、もう大学なんか行かないで、すぐに結婚しないかしら」と私が真面目に言うと、男性陣は一瞬、息を飲んで、そして同時に笑い出した。


 私たちは幸せだった。そんな未来が手に届くと信じて疑わなかった。




 そして私は琴さんが来る度にちょっとしたおやつを楽しんだ。台所で二人だけでこっそり食べるおやつの時間が楽しみだったけれど、博さんがすぐに探しにくる。


「母さん、琴さんに用事ばかり言いつけて」と怒られた。


「おにぎりを一緒に作ってたんですよ」と琴さんが博さんに微笑みかける。


 我が息子はすぐに視線を逸らして、耳まで赤くするから、心配になる。ちゃんと優しくしているだろうか、と琴さんに聞いたことがある。


「はい。優しいです。難しい本も貸してくださるし、いろいろと…お話くださいます」と琴さんも頬を染める。


 そんな二人を見ていて、私まで胸が甘酸っぱい気持ちになる。夫に


「最近、何だか浮足だってないか?」と言われた。


「えぇ。だって…あの二人が何だかとっても可愛らしくて。恋愛結婚っていいですね」と言ってしまった。


 長男の下宿先のお嬢さんとの話はまだ何もできていなかった。


「お前、勇のこと…」


「勇は…かわいそうですよ」


「甘すぎるなぁ」と夫はため息を吐く。


「あなただって、甘いじゃありませんか」


 夫は顔を顰めるが、この人は本当は優しい。私はそれを知っていて、微笑みかけると、少し目を逸らした。そう言うところは親子そっくりだな、と思うから


「とっても優しい旦那様だと思ってますよ」と言った。


 耳まで赤くなるのも同じだ。




 物が手に入らなくなる。琴さんとのおやつもつまらないものばかりになった。


「お母さま」と琴さんがアジサイを抱えて訪ねてきてくれた。


「あら、綺麗」


「いつも美味しいものを頂いていて」


「あらあら。それがねぇ。もう本当に何も手に入らなくなってきて。困ってるのよ」


「今日はアジサイを見ながら、お水でも飲みましょう」とかわいらしいことを言う。


「ふふふ。おにぎりでも作りましょうか」


「はい」


 青いアジサイが琴さんの白い肌に綺麗に映える。


「ねぇ。博さんももうすぐ帰ってくるから、お花見せてあげて」


「はい」


 きっと博さんもこの愛らしい少女をアジサイを見て、心をときめかすだろう、と私は思った。大学を行かずして、結婚すると言ってくれるかもしれない、とこっそり思って微笑んだ。


 私の思惑通り、琴さんを見て、息が止まっていた。何も言葉を発しないので、琴さんは不安そうに


「アジサイはお嫌いですか?」と聞いていた。


「いえ。…大変、美しいです」


 玄関で立ち尽くした博さんを見て、私は思わず小さく噴き出してしまった。それすらも気にならないほど、琴さんにくぎ付けで、いよいよ結婚をと思ったけれど、大学に

進学するのは変わらないと言った。


 それは琴さんのために将来を考えてのことだと言う。


 私は博さんの言うことももっともだと思って、すぐに結婚というのは諦めた。でも二人の様子を見ていると、強い思いで結ばれているので、関係性には不安はなかった。


 しかし二人が長く一緒に居られない理由は彼ら自身とは全く違うものだった。


 景気いいニュースを流していたラジオからはよく分からない話が多くなり、国民に我慢を強要する内容ばかりになっていった。


「あなた?」と私は振り返るが、難しい顔を見せている。


 戦況が悪化しているなんて、私には分からなかった。ただ、毎日のことで忙殺され、庭を耕して、小さな畑を作ったり、配給以外で何とか食べるものを手に入れることで必死だった。




 ある日、琴さんのお母さまの実家から野菜が届いたというので、分けてもらった。


「あら、こんなにたくさん。ありがたいです」と私は素直に受け取った。


「困った時はお互い様よ」と川上の奥さんはそう笑った。


 笑顔が琴さんに似ている。


「奥様。琴さんがお嫁に来た際には私が身体を張ってでも、お守りしますからね」


「琴から聞いてます。本当によくして頂いているようで」


「だってあんなにかわいらしいお嬢さんですから…。家は男ばかりで」と言うと、こっそり、琴さんが博さんをかなり好いているらしい、と川上の奥さんが教えてくれる。


「あら、家の博さんだって…。口ではいいませんけど、耳まで真っ赤にして」と言うと、二人で笑う。


 川上さんの奥さんと喋っていると久しぶりに明るい気分になった。何かお返しできるものはないか、と家庭菜園でできた貧相な野菜を持って行ったりした。


 青空を見上げる。物資はないが、我慢すればいつかと思っていた。


「雨になりそうね」と誰にいうわけでもなく呟く。


 入道雲の白い雲が広がってくる。その空に敵の飛行機が飛んでくるなんて夢にも思わなかった。


 戦争はどこか遠い別の国で行われていると…そんな風に思っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る