第18話
男女の友情
台所の下で私は電子タバコを吸った。すっかり遠ざかっていた悪癖を再開させた。そして誰もいない壁を見ては星さんの背中を懐かしんだ。
コトちゃんは川上さんのおばあさんのところに四日ほど泊りに行ってるということで、私は本当に暇になった。バイトに行くくらいで、後は日がな一日ぼんやりしていた。
今日は今からバイトがあるから、まだよかった。人間といて最低限の用意をしている。着替えて化粧も軽くしていた。玄関のインターフォンが鳴って、出ると、川上さんの奥さんだった。
私はタバコの火を消して、玄関を開けて、外廊下に出た。奥さんの背後は思ったより黒くなかった。
「…留守なの?」と私に聞く。
「留守なんじゃないですか?」
「知らないの?」
「知りませんよ」と軽く息を吐いた。
「…そう。私…辛かったの」と俯いた。
「暑いですね」
「え?」
「暑いから…近くの喫茶店行きませんか?」と私は行って、一度部屋に戻って、鞄を取って来る。
廊下に出ると、まだ奥さんは立っていた。
「行きましょう」と言うと、そのまま黙ってついてくる。
いくら黒いものが薄れたとはいえ、まだうっすら黒い背中の人を部屋に招き入れたくなかったから、喫茶店に誘ったけれど、奥さんは私と話して楽しいのだろうか、と考
える。まぁ、多分、私じゃなくても誰でも話すことができたらいいのだろうな、と思って、近くの喫茶店に入る。昔から営業しているところで、スパゲッティやサンドイッチが置いてある。
私も奥さんもアイスティだけ頼んだ。
「…夕方からバイトなんで、あまりゆっくりはできませんけど」と私は先に告げておいた。
奥さんは俯きながら、首を横に振った。
「私、一生懸命にご飯を作ったの。美味しいご飯を。なるべく添加物のないものを使って。仕事を頑張るあの人のためにも、コトのためにも。でも…あの人、食べてくれなくて…。食べても上の空で」
それは川上さんからも聞いたことがある話だった。
「淋しかった。…喜んで食べてくれる人のところについ…すがってしまったけれど」
「…それでよりを戻したいんですか?」
「コトと暮らしたいの。あの人には…きっと許してもらえないから」
「…コトちゃん、可愛いですもんね。でも…あなたが淋しくなって同居したいというのなら、私、個人的には反対です」
「…それは」
アイスティが運ばれてくる。
「私が反対したところで、どうのこうのって言える立場じゃないですけど。コトちゃんだって、お母さんが大好きなんです。だからあなたの力になろうとすると思いますけど」
ずっと俯いたままだ。この人はこの人なりに反省しているのが私にはわかった。
「まずはご自身が自分の力で救われないと…同じことの繰り返しになります」
「…そうですね。本当に馬鹿なことをしたと思います」と俯いた顔から涙が落ちた。
幸せがそこにあっても、見えないことがある。私だってきっとそうだ。でも…大切なものを忘れてしまわないようには心がけでできる。
「会える日はいつかくると思いますけど…」と言葉をかけた。
「…そうね」
私はアイスティを飲みながら、人生は有限だと思った。命の期限、だれかと一緒に過ごせる時間、人を愛すること。愛もいつかは冷めていく。そう思うと恋愛で泣いたり笑ったりするのが、私にはどうしても億劫に感じてしまう。だから人を愛せる奥さんの方が人間らしいのかもしれない。
アイスティは奥さんが払ってくれた。もう日が短くなりつつある夏の終わりの日で、その日飲んだアイスティは少し濃くて、ほんのりえぐみがあった。
バイト先に行くと、夏樹が来ていた。
「聖、いつもの」と言うから
「エビチリだっけ?」と値段の高いものを言う。
「チャーハンと餃子だろー」
「いいとこのボンボンが。エビチリくらい頼みなさいよ」
「親と俺は関係ないだろ」と拗ねる。
「そう?」
学生の間は全然関係あると思う。私はなるべく親の負担にならないように帰省すらしない。そして四年で卒業して、就職を絶対にしようと決めている。夏樹は「大学院に行こうかな。それとも留学しよっかなぁ」と暢気に言ってた。
私は店主に挨拶しながら、夏樹のオーダーを通す。そして奥に行って、エプロンを付けた。まだ早い時間だったので、お客は夏樹とテイクアウトの主婦だけだった。
「夏樹さー。俺と付き合わない? まじで」と私がテイクアウトの餃子をビニール袋に入れている時に言ってくる。
無視して、主婦に餃子を渡して、店の入り口まで見送った。
ここらではっきりさせておくべきだと私は夏樹のテーブルまで行く。
「私はさ、あんたと友達でいたいから、絶対に付き合わない」
「えー。聖は男女の友情があると思ってんの?」と逆に聞かれた。
「夏樹とはできると思ってる」
夏樹は肩を竦めて、ため息をついた。
「これだから、ピュアな聖ちゃんは困る。いいか。夏樹大先生が教えてやる。男は女友達にさえ、下心を持つ生き物なんだよ。男女間の友情なんて
結構なインパクトのある台詞だった。
「は? あんた、私にそんなこと思ってたんだ」
「現在進行形で思ってるよ。だから付き合おうって言ってんじゃん」
私は夏樹の前で一度だって、可愛いことを言ったことがない。なんなら気安く罵詈雑言を言ったことは幾度もある。
「んー。理解できない。私の何がいいんだか」と頭が痛くなってきた。
丁度、チャーハンと餃子が出来上がったので、私はそれを取りに行って、夏樹のテーブルに運んだ。
「エビチリ」
「はい?」
「エビチリ追加で」
「え? 本当に食べるの?」
「食べるから」
夏樹がなぜかエビチリを追加注文する。店主のところに行って、エビチリを追加注文する。私は水が半分に減った夏樹のコップに水を注ぎに行った。
「あのさ。…遊園地は朝から行くから」と夏樹に言われた。
「うん。分かった」と言って、私はどうしていいのか分からなくなる。
その後、エビチリを運んで、ちゃんとそれも食べて、夏樹はそれ以上、何も言わずに店を出た。後は客が増えて忙しくなって、私は考えることもしなくてよくなった。
夜、一人きりの部屋に帰る。隣も静かだし、私はベッドに体を横たえた。
「人を好きになるということが分かんないよ」
友達としてなら、好きだと思えるけど、恋人とか彼氏とか分からない。星さんに教えてもらえればよかった、と今更ながら思った。
ふと思い出して、体を起こして、棚にしまったサラリーマンのIDを検討しようかと思った。夏樹より、まだ恋愛できそうな気がする。顔だけしか知らないけれど、まだ私は可愛げを見せることができそうな気がするな、と思いながら棚からIDが書かれたレシートを取り出した。
そのレシートは感熱紙で、なぜか大きく三角印が付けられてあった。
「こんなの…あったかな」と呟いて、それが星さんの仕業だと気が付いて、思わず吹き出してしまった。
(やっぱり見に行ってくれたんだ)
「三角かぁ」と言いながら、笑いが止まらない。
後ろの手書きのIDを見て、透けて見える三角を指でなぞった。夏樹のIDだったら大きくバツをつけるだろうか、それとも丸だろうか、と思いながら笑った。
(星さん、ありがとう。最後に…ちゃんと挨拶できなかったけど。一緒にいて楽しかったよ)と目を閉じて、そこから零れる涙をそのままにした。
星さんがいた場所には当然何もなくて、白い壁が大きく感じた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます