第17話

月の光


 星さんはずっと私に向かって、お辞儀をしたままで消えていった。本当に成仏したんだと分かったけれど、あれほど、いろんなことをしたのに、あっけない気がした。


 さよなら一つも言えないまま、すっと去って行った。


「…聖さん、大丈夫ですか?」


「…あ。はい。成仏…しちゃったみたいです」


 思わず本音が語尾に出てしまう。それでいいはずなのに。私も納得したのに。この前のコトちゃんのお母さんの彼氏の枕元に立つのは違って、もう二度と帰ってこない。


 足元にブルーグレーの猫ちゃんが寄ってきて「にゃー」と鳴いて、私の足に頭を擦りつける。


「トラちゃん。ありがとう」と十子さんは頭を撫でた。


 私もしゃがんで「成仏させてくれて…ありがとう。星さんは今はいい場所にいるかな」と言うと、「にゃーん」とまるで返事をするように鳴き声を上げた。


 星さんが心安らぐ場所にいるなら、大丈夫だ、と思ったのに涙が零れた。


 私は顔を手の甲で擦って、十子さんに言う。


「きっとまた会えますよね?」


「会えますよ。きっと」


 それから二人でご飯を用意したり、子供たちと遊んだりして私は気を紛らわせた。帰りはすぐ近くなのに家までみんなが一緒に歩いて送ってくれる。


「聖ちゃん、楽しかったね」とコトちゃんがかわいい笑顔を見せてくれる。


「そうだね。良かったね」と私が答えると、コトちゃんは私の手を引いた。


「淋しくなっちゃうね」


「え?」


 突然、コトちゃんにそう言われて、私は目を大きくしてしまう。


「みんなで遊んで、その後はバイバイするから淋しくなる」


 (あぁ、今日のことか)と私は納得しかけた。


「淋しいけど、でもまた会えるから」と慰めるようにコトちゃんは私の手をぎゅうっと握った。


「会える…よね」


「うん」と言うと、光君が「泊まったらいいのに」と言ってくれる。


 コトちゃんは嬉しそうに「ありがとう。また聞いてみるね」と言った。


 灯君が


「兵隊さんはどこ行ったの?」と言うから、中崎さんが「え? 兵隊って? なに? いたの?」とイケメンなのに青ざめた顔で十子さんに聞いていた。


「兵隊さん? 星の帽子被った?」とコトちゃんが訊く。


「うん。ずっと聖ちゃんとコトちゃんの側にいたよ」と灯君がこともなげに言う。


「コトちゃんのひい爺さんじゃないの?」と光君が言う。


「違うよ」と灯君が訂正した。


「ひいお爺さんじゃない兵隊さんがいたの? トラが追い払ったの?」と中崎さんは十子さんに早口で尋ねる。


「成仏したの。次の人生に進むために」と十子さんが穏やかな声で言う。


「…成仏」とコトちゃんが口の中で呟いた。


「じょうぶつってなに?」と光君が十子さんに聞いていた。


「そうねぇ。死んだ後に、行く場所に行ったってことかな」


「行く場所? 天国とか?」と光君が言って「地獄とか」と灯君が言った。


「じゃあさー、あそこに立ってる人って」と生きてる人はだれもいない電柱を光君が指さす。


 もちろん、そこにはぼんやり立っているサラリーマンの幽霊がいた。


「あ、指差しちゃだめ」と十子さんが言うと同時に中崎さんは十子さんの肩を抱いた。


 震えているのがはっきりわかる。


「そうだよ。光。人を指さしちゃだめだ」


「えー。だって、あの人、生きてる人じゃないよー」と普通に言うから「生きてても、死んでても、人は人だから」と十子さんに諭されている。


 ずっとその間、中崎さんは十子さんの肩を抱いて


「さすがママは偉いね」と震えながら言った。


 なんだかその様子がおかしくて、みんなが笑った。


「パパはそうやって、すぐママにひっつく。怖かったらどうぞ」と言って、灯君がコトちゃんに手を差し出す。


「俺も、どうぞ」と光君も手を出すから、コトちゃんは真ん中で両端にイケメンとなった。


 星さんが成仏した後でよかった、と何ともいえない複雑な気分になった。


 でも可愛い三人組を見ると、私の心は凪いでいく。でも私一人だけぽつんとしているのがコトちゃんは気になったようで、振り返って、私を見た。


「こっちの手、空いてるよ」とイケメン双子が同時に後ろにいる私に手を差し出してくれた。


 その様子に大人たちが笑って、三人は不思議そうな顔をする。



「子どもグループで仲良くしてて。私も恋人探したくなっちゃったな」


「えー。別に恋人じゃないよ。コトちゃんは友達だから」と灯君が言う。


「俺はコトちゃん好きだけどなー。呼び捨てだからなー」と光君が少し頬を膨らませる。


「え?」と驚いたようにコトちゃんは光君を見た。


「俺も君つけて呼んで欲しい」


「いいよ。光君」とコトちゃんはなんだか照れたように言った。


 微笑ましくて、胸がほんわりと温かくなる夜だった。私は今、星さんのいなくなった自分の部屋のことは考えたくなかった。


 アパートの下まで来ると、川上さんが降りてきた。


「すみません。送って頂いて」と頭を下げる。


「いえいえ。いつも息子たちがお世話になってますから」と中崎さんもお辞儀をした。


「じゃあ、またね」とコトちゃんが手を離して、二人に手を振る。


「泊まりに来てねー」と光君が大きな声で言うから、十子さんが口を押えた。


「ありがとー」と言いながら、コトちゃんは手を振り続けた。


 私たちはアパートの階段を上がる。並んで歩くと、まるで親子みたいな気分になった。


「じゃあ、お休みなさい」と私は二人に挨拶をする。


「聖ちゃん、お休み」と可愛い笑顔を見せてくれるコトちゃんと「本当にありがとうございます」とお礼を言う川上さんと別れて、自分の部屋に戻った。


 一人の部屋に戻るのは少し怖かった。



 扉を開けると、月の光だけが静かに窓から差し込んで、そしてやはり誰もいなかった。

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