第16話

晴れた日の雪


 赤紙が星さんに届いた。大学生は召集の猶予が与えられていたが、ついに文系の学生は召集されることになった。その話は琴さんにもすぐに伝わり、ついにお国のために、星さんが出征するのだと覚悟を決めた。


 琴さんのお父さんは少し難しそうな顔をして「もう…会えないかもしれないな」と言った。


 戦況が厳しくなっていることを琴さんのお父さんは分かっていた。


「え?」と琴さんが聞き返す。


「琴は…出征前の星野くんと結婚するか?」


「はい。もちろんです」


 何の迷いもなかった。お国のために星さんが出征するのなら、すぐにでも結婚しようと決めていた。


「しかし向こうは断ってきたぞ」


「…そんな。私は…星野家に嫁ぎます。ずっとそう決めてました」


「うん。そうだな。そう伝えておくよ。きっと琴のことを考えて、断ったのだろうから」


「私の?」


「この戦争は…」と琴さんのお父さんが言いかけて口を噤んだ。


「…お国のために命を落とすのなら、それならなおさら…出征まで私は星さんの側にいたいです」


 琴さんは星さんを支えてあげたかった。


 琴さんのお母さんの親戚から花嫁衣裳を借りてきて、何もかも急いで用意される。用意とはいっても、派手なことをするにも物がなかった。ありあわせのものでするしかない。


「小豆をいれるから、少しひえが入っていてもいいわね」と琴さんのお母さんはお赤飯を用意した。


「琴がお嫁にいくのだから、少しでも見栄えがいいようにねぇ」とおかずを数種類も用意してくれた。


「お母さん。ありがとうございます」


「琴…。星さんを支えてあげなさい。しっかりしている方ですけれど、知らない土地に向かうのですから、心細いこともあるでしょう」


「はい」


 数日だけの夫婦生活だからこそ、琴さんはしっかり夫婦として過ごしたかった。だからこそ、笑顔を作って、涙を流すまいと決意する。


 そして結婚式は急遽行われ、その日から星野家に住んだ。朝は早く起きてご飯を用意する。数日しか用意してあげられないのが心ぐるしい。かまどのご飯をよそっていると、


「琴さん…。ごめんなさいね」と星さんのお母さんから謝られる。


「そんな。謝らないでください。私の望みでしたから」


 泣きそうな顔で頭を下げられて、琴さんはどうしていいのか分からない。


「あの子は…もう…戻ってこれないのに」とその場に手をついた。


「お母様」と言って、駆け寄る。


「私は一生、星さんを愛しますから」


 泣き崩れる義母を支えながら、琴さんは胸が軋んだ。


 日中は方々へ挨拶に出かける星さんとゆっくりできるのは夕餉の後だった。後片付けをしようとしたら、義母が「私がするから…」と二人の時間を作ってくれた。


 縁側に座って、夜の庭を眺める。


「琴さん…すみません」


「もう。お母様もそんなことを言ってましたよ。私は嬉しいだけなんですから」と言って、頬を膨らませる。


 星さんが愛おしそうに頬を撫でてくれる。


「…赤ちゃん」


「え?」


「赤ちゃんが出来てたら、名前、どうしましょうか?」


 星さんの顔が赤くなる。


「…それは」


「考えてくださいね」


「女の子でしょうか?」


「どっちも考えてください」と言って、頭を肩に持たせかける。


 出征までに数日しかない。赤ちゃんができる確率は低いけれど、未来へつながる希望が欲しかった。


「お父様につけて頂いた名前、大切にしますからね」と微笑むと、さらに星さんが顔を赤くした。


 月がぼんやり浮かんでいる。


 どこかでこんなはずじゃなかったのに、と思った。



 ずっと子供の頃から夢見ていた星さんとの結婚生活。星さんが働きに出かけるのを見送って、帰ってくるまで家事をして、出迎える。そして子供が生まれたら…そんなことを想像していた。僅か数日間だけのそんな生活をしながら、琴さんはどこかで「違う」と思っていた。


 お国のためと立派な軍服を着た星さんは恰好いいと思うけれど、やはり「違う」と思った。星さんは戦地に向かうことを喜んでいない気がしている。


 こんなに優しい星さんが戦争に向かって、銃を構えることが琴さんには「違う」と思っていたようだった。



 戦地に向かう前日の夜に、手渡された手紙に、考えてくれた子供の名前が書かれてあった。


「男の子 みのる、女の子恵子けいこ。素敵な名前です」


「そうですか」


 照れた様子を見て、琴さんは胸が潰れそうになる。星さんらしい名前を付けてくれた、と思った。この頃は戦争にちなんで「勝」という字を使う人が多かったが、星さんが子どもたちに望むことがそれぞれの幸せだと分かる名前だった。


 架空の赤ちゃんかもしれない、それでも名前を付けてくれたことが嬉しくて、琴さんは


「本当に…星さんの赤ちゃん、欲しいです」と言った。


 ためらうように、でもしっかりと腰を引き寄せられる。今日が最後だと思うから、琴さんから唇を寄せた。


 夜がずっと明けなければいいとこんなに願ったことはなかった。



 翌日、出征の見送りをした。大勢の人がホームにあふれかえっている。言いたいことは夜の間に全て言ったつもりだったけれど、でも思ったこと何一つ言えなかったような気持ちにもなる。


「星さん…」


「琴さん。お元気で」


 永遠の別れだった。


 動き出す汽車を何とか追いかけようと、人込みの中を縫って走るけれど、上手く行かない。星さんが身を乗り出した窓がどんどん先へ行ってしまう。ついには窓は見えなくなり、列車が遠ざかって行った。



 星野家に義母と帰って来た途端、


「琴さん、あなたはまだお若いから、お戻りなさい」と言われた。


「…そんな。私…。星さんをお支えしたいと…」


「充分よ。もう…あの子は帰らないと思うの」


 そう言って、遠くを見た。義母の気持ちが痛いほど分かる。


「お義母さま」


「琴さんが家に来てくれて、あの子も幸せな日々を送れたと思うから。籍はまだ入ってないことだし、何もなかったのよ。あなたは忘れて、幸せに暮らしなさい」


「そんなことできません」


 戦地に向かった夫を支えるのは銃後の妻だと教えられている。


「…それがあの子の望みなの」


「え?」


「ここに来てくれて、数日、あなたはうちを手伝ってくれて…ただそれだけのことだったの。後はあなたの幸せを…ってあの子が言ったのよ」


「でも…」


 星さんは何より琴さんの幸せを望んでいた。


「赤ちゃんがいるかもしれません」と琴さんは口にしていた。


 義母はそっと体を抱きしめて「それなら、その時は戻ってきてくださいね」と言った。


 結局、そのまま琴さんは実家に戻り、実家にも話がいっていたらしく


「おかえりなさい」と受け入れられた。


 それから二週間後、月の物が来た時、琴さんは泣いた。これで星さんとのつながりが消えてしまったと一晩中泣いていた。


 戦況が悪化し、寒さが本格化してきた時期に、学校に戻っていた琴さんは軍需工場に駆り出され、地方の寮で生活するようになった。栄養もろくに取れない食事が一日二食で、空調も整わず、白い息を吐きながら朝から晩まで働かさせられた。お腹は空いていたが、お米ではない材料で作られた重湯のような朝食では食欲がでなかった。


 慣れない工具を手にして、立ちっぱなしで作業する。失敗すると怒号が飛んでくる。精神的にも肉体的にも苦しかった。


 お国のためと言われながら、周りの友達の顔が暗く沈んでいた。倒れる友人もいた。


 みんながやせ細り、工場と寮の往復するだけの毎日だった。苦しくても星さんも頑張っていると思いながら、毎日を過ごしていた。


 銃後の妻として――。


 辛そうな友達の分も働いた。星さんはもっと過酷な場所にいる。そう思って、琴さんは必死だった。


 ただ無理がたたり、極度の栄養不足と過労で琴さんは倒れた。高熱が出たが、治療もままならず、両親が慌てて迎えに来た時には虫の息だった。雪の中、大変な思いをして琴さんの両親はやって来たが、顔色の悪い娘と対面することになった。


「琴、琴」と呼びかけられて、ゆっくり目を開ける。


 窓の雪が綺麗に日中の太陽光が反射して光って見える。きらきら眩しい雪を見ながら、


(あぁ、これで…星さんと会える。約束の場所で待っていたら、きっと会える)と思った。


「ありがとう…ござい…ます」と切れ切れに言葉を吐きながら、琴さんは穏やかに微笑んだ。


 両親に感謝を告げて、琴さんの息は切れた。昭和十九年、年が明ける前の十二月の頃だった。



 死んだのだろう。自分の体を俯瞰して見えた。泣き崩れる両親もその体の側にいた。心がひかれたが、琴さんは約束の場所に向かおうとした時、戦争のありとあらゆるものを見てしまった。お国のためとしてきたことだったが、それはあまりにも悲惨な現実を引き起こしていた。自分が信じていたものが崩れていく。


 自分の過去も見えた。


 初めて星さんと出会った時、勉強を教えてもらったこと、父親同士が酔っぱらって許嫁にしてしまった時のこと。それが密に嬉しくて仕方なかった自分。


 許嫁になってから、会うたびに面映ゆくなっていた自分。


 たまに田舎に帰省した時、約束して、内緒で森の中で待ち合わせしたこと。


 軍服を来た星さんを「恰好良いです」と言った自分。


 国旗を振って星さんを見送っていた自分。


 星さんを死の場所へ送るために旗を振っていた自分。


 戦争に対して、星さんがどう思っていたのか。


 自分は子供過ぎて、何も分かっていなかった。


「行かせるべきじゃなかった。もう二度と行かせてはいけない」と強く思った。



 眩しい光に包まれる。そこで琴さんは誓った。


「今度は私がもっと大人になります。大人になって、あの人を守れるようになりたいです。あの人をもう死なせたくないです。そんな場所へ二度と送り出したくないです。どうか私をもっと大人にしてください」


 その願いは星さんを待つと言う約束を破る理由だった。



(あ、だから先に生まれかわったんだ。そしてコトちゃんがいつも大人になりたいと言っていたのは、ここから来てる)と私が思った時、


「にゃあ」とブルーグレーの猫ちゃんが鳴いた。


「聖さん?」と十子さんが私を見た。


「…あ、あの」


「五分くらい、動かなかったですよ」


「五分?」


 体感ではもっと長い時間に思えた。


「理由…約束を破った理由が分かりました」と言って、私は振り返って星さんを見る。


 星さんがいかに琴さんを愛していたのか、琴さんもどれほど後悔していたかを知った私は星さんに語り掛けた。琴さんが待っていなかった理由を。


 あの時代の少女は大抵そうであったように軍国主義を植え付けられていた。お国のためにとつねに純粋な心で全てを捉えていた。


「でもそれがあなたを戦争に行かせてしまったと。もちろん琴さん一人の責任じゃなくて、時代のせいなんですけど、それでも今度はあなたを守りたいと…。約束の場所には行かずに、先に生まれてきてます。だから…星さんもどうか生まれかわって、コトちゃん(琴さん)と会ってください」


 私は二人が今世で出会えることを望んでいる。この平和な世の中で、前にできなかったことをたくさんして欲しい。


『そう…ですか』


「星さんを今度は守りたいって…」


 それを聞いて、少し悲しそうに笑う。


「成仏できそう?」


『…はい』


「聖さん、大丈夫ですか?」


 十子さんは私の気持ちを慮ってくれるけれど、私はもう自分の淋しいという気持ちなんてそんなことは甘えでしかないと思って、頷いた。


 ブルーグレーの猫ちゃんが星さんの方へ向かってジャンプする。


 星さんが私に向かって、お辞儀して、そしてゆっくりと消えていった。

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