第13話

見えない存在


 星さんがいない。


 どこにもいない。


 ぱっと見て、全てが見渡せる部屋なので、ドアを開けるところは押し入れ、お風呂、トイレくらいだ。そこにもいない。幽霊が利用するかはしらないけれど、ノックした上でトイレも見てみた。鞄の中も、机の中も…という歌に合わせてみたけれど、どこにもいない。


「え? あれ? 隣にいるのかな?」と呟いてみたけれど、突撃することもできない。


 とりあえず、落ち着いて、お風呂に入ってみる。その内帰ってくるかもしれない。


(野良猫じゃないんだから)と一人突っ込みをしてみる。


 そのまま眠ったけれど、朝になっても私は完全に一人だった。


 朝ごはんも作る気になれずに、水を飲んで、久しぶりに換気扇の下で電子タバコを吸う。星さんがいないだけで、さっそく生活が堕落してしまう。

 ある日、突然、霊が見えなくなってしまう…ということもあるらしい。目を凝らしても、大きく開けても、瞬きしてもやはりいなかった。

(成仏…したのかな。え? 何も言わずに? かぼちゃの煮物で? 美味しかったから?)

 テーブルの上には出したままのかぼちゃの煮物がある。

(おいしかったって…せめて一言聞きたかったな。初めて作ったんだから)

 泣きそうになる気持ちを抑えて、タバコを何度も吸ったり吐いたりする。

(もともと幽霊と人じゃん。ずっと一緒にいられるわけないし。ってか、なんで…)

「…なんでいたのよ」

(お供え物だけ…欲しかったの?)

「満足した?」

(食べるものだけ食べて…さよならも言わないなんて)

「さいて…」と言って、私はいつもきちんと両手を合わせて「いただきます」と言ってた星さんを思い出す。

 勝手に出ていくはずがない。

「星…さん。何があったの?」

 がらんとした部屋は私の声だけが響いて、輝く朝日がベランダから明るく空っぽの部屋を照らしていた。

 インターフォンが鳴る。慌てて出ると、川上さん親子だった。それはそうだ。星さんがインターフォンを鳴らす理由はない。私は慌てて、電子タバコを消して玄関に向かった。

 川上さんとコトちゃんが立っているが、当然、星さんはいなかった。

「おはようございます」と言って、パンがたくさん入ったビニール袋を渡してくれる。

「え? あ、おはようございます」

「昨日のお礼です。朝、コトと買いに行ったんです。聖さんにも…って言うから」と川上さんが言う。

「聖ちゃん、元気ないの?」

「あ、うーん。バイトのある昼までコトちゃんと遊べるかなって思ったんだけど」

 コトちゃんは黄帽をかぶり、手提げを持って、水筒を肩からかけていた。

「今日は学童に行くの。パパの作ってくれたお弁当持って」

「いいねぇ。じゃあ、帰ってきたらご飯作ろう」と私は何気なく指切りをしようと小指を出す。

 少し、コトちゃんは躊躇いながら、小指を当ててきた。

「どうかした?」

「ううん。約束…守りたいんだけど、お腹痛くなるかもしれないし」

 ふと琴さんが星さんとの約束を守らなかったと言った灯君の言葉を思い出す。

「え? そんなのいいよ。じゃあ、当てるだけにしよう。私だって、何があるかわからないし」と言って、軽く小指を当てた。

「うん」とすっきりしたような顔でコトちゃんは小指を当てて「夕方には戻るからね」と言ってくれる。

 コトちゃんが笑顔になって、そしてお父さんと一緒に外階段を下りるのを私は上から見ていた。何度も振り返って「行ってきまーす」というコトちゃんが可愛くて、私も「いってらしゃーい」と手を振る。

(こんなにかわいいコトちゃん置いて、本当にどこ行ったの?)

 そして私が昼のバイトから帰って来た時、川上さんの部屋の前で大喧嘩してる男女二人が見えた。知らない女性と川上さんだった。

「コトを引き取りたいなんて…今更」

「コトは私がお腹を痛めて産んだ子なの。いつかは引き取りに来るつもりだったわよ」

「あいつと別れたからって…って。自分の気持ちしか考えてないな」

「違うわよ。コトは女の子だし、母親がいた方がいいわよ」

 私はアパートの前でしばし待っていたが、気まずくて階段を上がれそうにない。二人の言い合いをしばらく聞いていたが、困ったな、と思って、コンビニでも時間を潰そうかと踵を返した時、一階にいる大家さんが出てきた。

「あら、七瀬さん。お帰り。賑やかだから出てきたのよ」と大声で言って、にやっと笑う。

 二人の喧嘩は急に止まった。

「あれ? もう終わったのかしら? 楽しかったのに」と言って、また部屋に引っ込んだ。

 私は仕方なく、足取り重いまま、階段を上がる。挨拶だけして、帰ろうと思ったけど、私は奥さんを見て、思わず足が竦んだ。奥さんの背景が思いっきり黒かったからだ。黒過ぎて、人なのか獣なのかすら分からない。

「…うるさくしてすみません」と川上さんが謝る。

「え…あ…。いえ」と言いながら、奥さんから目が離せない。

 こんな状態の人のところにコトちゃんを連れていけない。まして引き取るなんてさせられない。

「コト…ちゃん。あなたに…もう…会わないって」

「はぁ? いきなり、誰?」

(うわぁ。怖い。きっと美人なんだろうけど、後ろの影響もあって、目が黒過ぎる)

「隣に住んでる大学生ですけど…。仲良くさせて頂いてます」と言うと、勘違いしたのか奥さんは腕を組んで「はーん。そういうこと?」と言った。

(どういうことだ?)と思ってる間に、川上さんが

「そんなわけないだろう。失礼だよ。コトの遊び相手してくれてるんだよ」

「どうだか。あなたのついでじゃないの? そうかコトをだしにあなたを取り込もうとしてるか」と言って、ようやく事態が飲み込めた。

 川上さんと私? と思わず首を傾げてしまう。

「取り込まれそうなのは…」と言って口をつぐんだ。

「なによ?」と奥さんが聞く。

「ちょっとだけ道を譲ってくれませんか?」

「はあ? 通れるでしょ」

 まぁ、通れるんだけど、その黒いのにあたりたくない。

「もう少しだけ、横にずれて。はい、そう。そう」と言って、私は体を横にして極力黒いものに触れないようにしながら、通り過ぎる。

「変な人」

 まぁ見えない人にしたら、変な人に見えるだろうけれど。私はそのまま部屋に入って、柑橘系のオイル入りスプレーに塩を入れて、日本酒を追加した。そしてまた玄関に出る。まだ二人は話し合っていた。後ろからスプレーを振りかけたから、鬼の形相で奥さんが振り返る。さらに振りかける。

「ちょっと何」

「…生ごみの匂いがしたので」

「はあ?」

 後ろの黒いものが少しちぎれて、飛んでいったが全部は取れそうにない。しゅっと振りかける度にちぎれていくが、根本的解決にならない。

「うーん。どうしよっかな」と呟くと、いよいよ怒り狂い出しそうになる。

「あなたねぇ」と掴みかかろうとする手を私は掴んだ。

「どうしてそんなに自分勝手なんですか?」

「…何も知らないくせに」


 まあ、分かってないけど、後ろの黒いのはこの人の勝手な性格に引き寄せられて来ている。ちぎってもちぎっても、また集まってくるのが見えた。


「彼氏だって…それりゃ別れるでしょう」と私が言うと、奥さんは顔を赤くして言った。


「私のせいじゃないわよ。なんか…変な幽霊くるからって。日本兵の幽霊が来るからって、出ていったのよ」


(星さん、いた。ってかそこに? なんで?)


「どいつもこいつも頭おかしい」


「おかしいのはあなたですよ? 本当にこのままじゃ、私もコトちゃんに会って欲しくないです」と言うと、掴んでない方の腕を手にしている鞄ごと、振り上げる。


 憤怒の顔にスプレーをかけた。目に入ったのだろう


「痛い、痛い」と叫んでいる。


「それでもコトちゃんはあなたのコロッケが美味しいって言ってました。ママは料理が上手で先生をしてるって私に自慢してくれてました。ママとは会わないって言いながら、淋しそうな顔で笑ってました。パパが一人になるからって。あの小さい子は…自分の気持ちを隠して、人のことばかり考えてるのに、あなたは…」と言って、手で顔を覆っている母親の頭にスプレーを振りかけた。


「自分で…立ってください。だれもあなたを救えないです」


「コト…」と言いながら泣き出した。


 後ろの黒い靄は小さくはなっているが、自分が改心しない限りは取れないし、また大きくなる。


「…反省して、いつかコトちゃんが自慢した時のお母さんになれたら、会いに来てあげてください」


 蹲る彼女に私はスプレーを手渡した。


「これ、お守りですから。本当に…今のあなたは臭いです」


 驚いたように私を見た。少しも笑えない。微笑むこともできない。ただ私はじっと見て、コトちゃんの母親なんだから、と彼女を信じたい気持ちで、瞳を見つめる。暗い瞳に光が入るといいと期待を込めて。よろよろと立ち上がり降りていく背中はまだ暗い。


 川上さんは不思議そうな顔をして、私を見た。


「…あ。今日は暑いですね。コトちゃん、学童に預けたのって、奥さんが来るからですか?」


「えぇ。そうです。…でも…あのスプレーなんですか?」


「あれは…なんて言うか、いい匂いがしたら気持ち明るくなりますしね」


「前にコトにも渡してましたよね」


「えぇ。まぁ…趣味みたいなもので…。アロマテラピーの一環ですかね。こう…人を落ち着かせるというか…」と私は気の利いたことは言えないけれど、咄嗟に嘘を吐くのが上手だ。


「…あいつ、昔はあんなんじゃなかったんです」


 私は川上さんを見た。たしかにかつては愛しあった二人なのだから、と思いながら。


「二人が…別れたから、また来るかもしれませんね」と私が言うと、川上さんが少し辛そうに言う。


 奥さんは料理が上手で女性らしくこまやかに気が利くタイプだった。合コンで一目ぼれした川上さんからデートに誘ったらしい。結婚までとんとん拍子に進んだ。


 家業の電気工事店を継いではいたけれど、子供が生まれたことで、奮起したと言う。携帯の代理店をしたり、最近では介護用品のレンタルショップもしていた。家族のために仕事を必死でこなしていたが、それが奥さんの心の隙を産んだようだった。


「毎日、毎日、ご馳走を用意してくれるんですけど、くたくたになって食べるときにぼんやりしたり、食べれない日もあって…。それで、介護のレンタルをしているお店に彼女が差し入れしたりしてるうちにアルバイトの男の子と仲良くなって…出ていって…。俺にも責任があるんですけど…」


「…側にいてくれることが幸せだったのかもしれませんね」と私が言うと、驚いたように言う。


「そうなんですか? お金を稼ぐことばかり考えてしまってました」


「もちろんある程度のお金は必要ですけど、でもお金だけだと淋しいですよね。やっぱり一緒にいるんだったら、同じ時間を楽しく過ごしたいです」


「…今更…分かったって感じです。コトと一緒に笑って過ごせるのが一番かなって思って。仕事を減らしました。でもそしたら、なんか上手く行き始めて…。不思議なんですけど。…不思議と言えば…なんですけどね。以前、コトと公園に行って、一人で砂場に入っていって、何もないところに話しかけてて、どうしたのか近寄って聞いてみたんです。そしたら星のマークの付いた帽子を被ったお兄さんに遊んでもらったって。警察かな? って思ったんですけど、見当たりませんし、一応『黒い帽子かな?』って聞いたんですよ。そしたら『薄い茶色でかっこいい服を着てた』って言ったことがあって。何だろうなって思って。それで…さっき兵隊の幽霊がって言ってましたけど…」


「え? 幽霊? そんなこと言ってましたっけ?」ととぼけてみた。


(星さん、ばれてる。っていうか、何してるの?)


「ありえないですよね」と川上さんが私に微笑む。


「あはは。いやぁ。お盆が近いから…あ、こっちは終わったんですよね。幽霊はいたり、いなかったり…いるかも? ですけど…どうかなぁ」


「あ、信じるタイプですか」と軽く聞かれた。


「うーん。なんかお祖母ちゃんが見えたとかそんな話を聞いて育ってて…」と私は曖昧にごまかした。


 すぐ簡単に嘘をつけばいいのに、どうしてかつけなかった。


「そうなんですか。素敵なおばあさんですね」


 私は川上さんを見た。


「はい。素敵でした。だから…亡くなっていなくなるって思うのは淋しいのかもしれません」


 私は頭がおかしいのかもしれない。脳の認知が歪んでいるから幽霊なんかを見るのかもしれない。それでも私はその件に関しては、嘘をつきたくなかった。いるのにいないなんて言いたくなかった。特別、幽霊に何かしてあげることはできないけれど、全否定はできなかった。


 ただいる。


 それだけだ。


 成仏させてあげることもできない。


 ましてや恨みを晴らすことなんて、到底無理だ。


 ただそこにいる。そんなことを思うだけの役立たずだ。


「…もし…兵隊さんの幽霊がコトちゃんの横にいるのなら、守ってるのかもしれませんね」と呟いた。


「え? コトを?」


 ふと言ってしまったけれど、私は星さんがしたことを無にしたくなかった。川上さんは少し考えるように目を伏せてから


「それは…ありがたいですね」と言った。



 星さんは帰ってくるだろうか。もしかして成仏できないように、迷子になって、ここにも戻ってこれないかもしれない、とそんな風に思うと、少し笑えた。1人の部屋は思ったより広く感じた。

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