第95話

近い遠い


 会議室を出ると、やっぱり深いため息が漏れてしまう。ほんの僅かの会話でも嬉しかった。

 会うと、やっぱり気持ちが素早く戻ってしまう。好きだという想いが溢れてきて、どうしていいのか分からない。忘れられると思っていた自分が馬鹿だった。その後、仕事に戻って、定時に上がる。川田さんが「車取ってくるから、会社の前で待ってて」と言う。


 私は会社の前で降り続ける雪を見ながら、不思議な気持ちだった。会わないと忘れられると思っていたのに、会わなくても好きが続いていることを確認させられた。もうこうなったら、部屋に中崎さんのポスターとかを貼って、アクスタ作って祭壇に置いて、アイドルのように推し活をするといいかもしれない、と考えていた。


「十子ちゃん」と声をかけられて、振り向く。


「本物」と思わず私は妄想から抜け出たので、口走ってしまった。


「本物?」と訝しげに首を傾げて、中崎さんが言う。


「あ、いえ。あの…」


「ちょっと困ったことがあって…」と申し訳なさそうに言う。


「何か…」


「宿が…この雪で満室になってしまった」


「え」


「ちょっと大きな町に行けばいいかもだけど…」


 大きな町に行くまでも、この雪だと大変そうだった。それに何より、ホテル泊が苦手なことを私は知ってる。


「あ…じゃあ、私のところに来ますか?」


「いいかな」


「…いいですよ。ちょっと片付けたりしないと…」と言ってると、川田さんが車を回してくれた。


「あれ? どうしたの?」と助手席のドアを開けながら声をかけてくれる。


 私は走り寄って、川田さんに話した。


「宿がないみたいで…。私の家に来てもらおうかと」


「え?」と川田さんは驚いた。


「あ、前の会社の人で…」と私は伝わらない説明をする。


 川田さんはちょっと考えて私を手招きして「彼が…好きな人?」と聞いた。


 頷くと靴屋さんの場所を教えてくれた。


「二人で買いに行ってきなさい」と行ってくれる。


「え…。でも…」


「頑張って」とドアを閉められてしまった。


 私の頭に雪が積もっている。


「十子ちゃん、レンタカー借りてて…」と中崎さんに言われた。


「…レンタカー」と間抜けな声で聞き返すと、私の頭の雪をはらってくれた。

 

 車の中に入ると、距離が近くなるのを感じる。


「雪靴のお店はこの道沿いにあるみたいです」と私は教えてもらった場所を伝えた。


「分かった。でも…すごい雪だね」


「はい。ちょっとだけかと思ったら…後から後から…。あ、そうそう。雪玉っていうの見ました」


「雪玉?」


「ぽこぽこ地面から生えてくるんです」


「え? それもぐら?」


「なんか、お化け? 妖怪? らしいです」


「…え?」と横顔が青ざめている。


 少しも変わっていない中崎さんを見て、ちょっと安心して、少し笑ってしまう。


「安心した」


「え?」


「もう二度と笑ってもらえないと思ったから」


 言葉が出なくて、整った横顔をじっと見た。長いまつ毛も、高い鼻も記憶のままだった。


「あの店でいい?」


「あ…はい」


 車は駐車場に入った。私が雪靴を選んでいると隣で中崎さんも試着している。


「え?」


「明日もこっちにいるから…買っておこうかと思って」と言われた。


 二人でお揃いの靴を買って、その場で履き替えた。


「スーパー行く? 車だからたくさん乗せられるよ」


「あ、ありがとうございます。大家さんに駐車場のこと聞いてみますね」と私は電話をかけた。


 大家さんは気のいい人で「友達が来たらいつでも駐車場使ってね」と言ってくれていた。番号を聞いて、覚えておく。私もここで暮らすのなら、車の免許を取るべきだな、と思った。


 中崎さんと車に戻る。二人でスーパーに向かう。


「今日は寒いから…シチューを食べませんか?」と私が言うと、中崎さんは頷いてくれた。


 二人でスーパーで買い物するなんて久しぶりだった。


「最近、焼き鳥行ってないの?」


「行ってないです。みなさん…ご家族で暮らしてて…お家でご飯食べる方が多いから…」


「そっか。じゃあ…焼き鳥でもよかったね」と言われて思わず笑ってしまった。


「十子ちゃんの笑顔…久しぶりに見たけど、かわいい」


「あ…。中崎さんも…変わらずかっこいいです」


 思いがけず照れた顔を見れて、私は久しぶりに心が跳ねた。まるで何事もなかったような時間に戻った。実際、中崎さんにとって、きっと何事もなかったんだろうけど、私はあの日、中崎さんを置き去りにして帰ってしまった。


 手を繋がれる。暖かくて大きな手。


「あの時、ごめんなさい」


「あの時?」


「置いて帰ってしまって」


「…ううん」と言って、首を横に振る。


「それから…ブロックも」


「それは悲しかった」と正直に言われた。


「ごめんなさい」


 でもそうしないと私は中崎さんを忘れられないと思ったからだ。結局、忘れられなかったんだけれど。無駄な抵抗。


「でも…僕がそれについて文句を言う権利はないな…って思ったから」


 スーパーで、ちょっとだけ立ち尽くして、二人で何をするべきなのか悩む。今更過去の話をしても仕方がない。

 今日の買い物をしなければ、と思った時、中崎さんが「ちょっとスェット買っていい?」と聞いてきた。


 泊まりになると思っていなくて着替えを用意していなかったみたいだった。

 スーパーの二階に小さな衣料品も置いていて、グレーのスェットを買っていた。その間に私はお客様用の歯ブラシを購入する。こうしてお泊まりの準備をしていると、私は突然降り出した雪に感謝した。ずっと降り続いたら中崎さんはずっといてくれるだろうか、と思って、頭を横に振った。

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