第96話

核心


 車で来てるから、洗剤やら、トイレットペーパーやら大きいものや、重たいものもついでに買ったらいいよと中崎さんが言ってくれた。私の家は五階建の小さなマンションだ。大家さんに言われた場所に駐車してエレベーターで上がる。二人とも両手にたくさん荷物を持っていた。その中でも中崎さんは重たいものを持ってくれた。


「あ、ちょっと散らかってるんですけど…」と言って、鍵を開ける。


 中崎さんには玄関の入ったところで待っててもらうことにした。

 今日は雪だったから、部屋に洗濯物を干していて、下着もそのままだった。リビングに入って、真っ先に下着を取るけど、乾いていない。帰ってきて、暖房で乾かそうと思っていたのだ。私はとりあえず、その下着をどうしていいのか分からず手に持って暖房を入れる。


 玄関先でくしゃみする音が聞こえた。

 冷え切った部屋も寒いけど、中崎さんも寒いだろうと、私は慌てて玄関に向かう。


「暖房今いれたところでまだ寒くて…しばらくコート着たままで」と言うと、中崎さんの視線が気になる。


 手にしている下着を見ていた。


「あ…これ…は、乾かそうと思って…あ」


「クマじゃないんだ…」


「クマは今、着用中です」と私は顔が赤くなる。


「そんなの見せられたら…」と中崎さんは手で顔を隠した。


 大失態だ、と私は下着を後ろ手にした。


「いいよ。乾かしたら…」と中崎さんは言う。


「はい…。部屋干しでも大丈夫ですか?」


「なるべく見ないようにする」と言ってくれた。


「そうしてください…」と私はなるべく後ろ側に下着を干し直した。


 上着を脱ぐとまだやっぱり寒いけれど、脱がないと動き辛い。私はコートを脱いで、玄関に持っていく。玄関はさらに寒くて、身震いをした。


「はー、寒い」と私が言うと、中崎さんが着ているコートを広げて「どうぞ」と言った。


 おずおずとその中に入ると、コートで包んでくれる。久しぶりの中崎さんの匂いをこそっり吸った。


「可愛い部屋だね」


「そうですか?」


 部屋はシンプルにナチュラル色の家具で揃えた。


「十子ちゃんの部屋って感じがする」と言われて、 恥ずかしくなった。


「お腹空きましたよね。シチュー作りますから」と、コートから抜け出す。


 そのタイミングで中崎さんもコートを脱いで、玄関にかけた後「手伝うよ」と台所に来てくれる。


 二人でジャガイモの皮を向いたりする。


「上手になったね」


「はい。ちょっと作れるものが増えました。最初は豆腐と納豆ばっかり食べてました。料理できなくて」


「疲れてるとそうなるよね」


 何だかこの部屋に中崎さんがいるのが本当に不思議で仕方がない。でも一緒に料理するのは違和感がなかった。


「ところで…話って、なんですか?」


「うん。あの…しょうって名前を思い出した」


「しょう…」


「しょうちゃん、って呼ばれてたのを思い出して」と中崎さんは言った。


 それから中崎さんは名前の記憶を取り戻してから「ぼんやり思い浮かぶ景色もある。それは懐かしい記憶で、でも痛みを感じるほど実感はなかった」と言った。


「しょうちゃんは…幸せになります。きっと」と私は希望を込めて言った。


 鍋にシチューの具を入れて炒める。お肉も全部入れたので、炒めにくい。適当なところでお水とコンソメを入れて煮ることにした。


「中崎さん…。記憶を思い出して…嫌な気持ちになりましたか?」


「ううん。特には…」


「私は優しいお母さんも…見えました。思い出せないですか?」


「…」


 中崎さんは思い当たるのか黙り込む。


「一緒に寝る前に読み聞かせしたり、お風呂上がり…二人を追いかけてました」


 中崎さんは時間が止まったように動かなくなった。


「それから幼い中崎さんが抱っこをせがんでいるのも。後ろに理実ちゃんを背負って、抱き上げてました」


(しょうちゃん、かわいいね)


 本当に幸せそうに微笑むお母さんの笑顔。ほっぺを擦り擦りされて嬉しそうに笑う幼いしょうちゃん。その絵が中崎さんにも見えてるはずだ。


 私はだまってシチュー作りに専念した。ゆっくりと灰汁を取って、ルーを割り入れ、牛乳を加えてシチューを煮込んでいく。


「…大丈夫?」と中崎さんが呟いていた。


 私はきっとお母さんに言ったんだ、と分かった。お母さんは今、どこでどうしてるのか分からない。トラちゃんが言うには生きているらしいけれど、幸せなのか、どうなのかは分からないけど、幸せに暮らすのは大変だろうと思う。


「できたー」と私は火を止めた。


 中崎さんの綺麗な目から涙がこぼれていた。キッチンペーパーで拭くのが勿体無くて、私は新しいハンカチを引き出しから取り出して、そっと当てた。


(これは一生、洗濯しないでおいておこう)とこっそり思いつつ、中崎さんの頬に当てて涙を拭く。


「十子ちゃん…。…幸せだった記憶が…ある」


「…そう…ですか」


「僕の中に…愛された記憶が…。そしていなくなったドアを見てた…気持ちと」


 憎む方が楽なのかもしれない。自分と妹を置いて出て行ったお母さんを許して、愛していた記憶を大切にするのは難しいのかもしれない。


「二つの気持ちが…同時に…」と苦しそうに言う。


「時間をかけて…ゆっくり…。どちらも本当のことです。中崎さんもどっちの気持ちも本当です」


 愛してるから、悲しみも寂しさも感じてしまう。


「ごめん。久しぶりに会ったのに…。こんなこと…」


「いいんです」と私は笑った。


 この反動は来るだろうと分かっていた。そんなに簡単に受け入れられるはずはない。私はシチューをお皿に入れて、そして小さなテーブルに置いた。


「食べましょう」と中崎さんに言うと、中崎さんが頷いて、そしてお礼を言ってくれる。


「いただきます」


「いただきます」


 二人で手を合わせてそう言った。雪の音が聞こえてきそうな静かな夜だった。暖かなシチューは冷えた体を温める。しばらく無言で食べた。


「十子ちゃん…が…僕から離れた理由って、結婚が理由?」


「え?」と私は思わず聞き返した。


 もちろん結婚する気のない中崎さんといつまでも一緒にいるのは無駄ではある。でも好きな人といれる時間は貴重だった。離れた理由はそうじゃない、と私は言う。


「中崎さん…。私のこと、抱き枕にするでしょう?」


「あ…うん」


「あれは…助けられなかった妹さんの代わりだって…。だから私を抱いて寝たら安心するんだと思うんです」


 中崎さんは思い当たる節があるのか、私をじっと見た。


「あ、でも私は…役得って言うか、色々、楽しい時間をたくさん持てて…良かったって思うので。でも…分かっちゃったら、何だか一緒にいるのが辛くて。私も好きだから…」と言う。


「十子ちゃん…」


「私もお兄ちゃんいるし、妹キャラだから…。やっぱり…そういう立ち位置になるって分かりますし…」


 自分でナイフを心臓にグサグサ刺してるみたいに胸が痛い。いっそ止まってしまえばいいのに、と思った。


「何…言ってるの?」


「何って…」


 私は中崎さんをじっと見た。また静かな時間になって、時間が止まったような気がした。雪は止むことを忘れているのか、窓の外の雪だけがずっと動いていた。

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