第84話

開かない扉


 その晩、私はスーパーに寄って、焼き鳥を買った。吉永さんに言われて食べたくなったたからだ。あとはおにぎりを作って、野菜は簡単にレタスときゅうりのサラダにしようとカゴに入れていく。結局、部長に会えないまま、私は仕事を終えた。

 デザートを選んでいると、中崎さんから電話がきた。


「十子ちゃん? どこ?」


「お疲れ様です。スーパーで買い物してます。何か必要なものありますか?」


「今から行くから待ってて」


「え?」


 急いでいるのか、中崎さんの息遣いが聞こえる。

 電話を切ると私はのんびりアイスを眺めたりしていた。すぐに中崎さんが来た。スーツ姿のイケメンはスーパーで目立って仕方がない。


「十子ちゃん」と大股早歩きで颯爽と近づいてくる。


「ごめん。今日…」


「何が…ですか?」


「恋人になったって…言えなくて」


「あ…」


「大事で…大切にしたい人だから…」


「はい…」


 焦っている姿を見て、私はどんな言葉をかければいいのか分からない。


「それで…はっきりしたこと言えなくてごめん」


「分かってます。中崎さんの気持ちも…」と笑顔を作った。


 カゴの中身を見て、ちょっと中崎さんが笑った。


「本当に…焼き鳥好きなんだね」


「あ…はい」


「食べに行こう…。それは明日のお弁当にしよう」


「え? お弁当?」


「僕が作るから。焼き鳥弁当」と言われて、急に心臓が跳ねる。


 しかも今からお店の焼き鳥を食べに行けるなんて、と現金だけど、笑顔が弾けた。会計を済ませると中崎さんはスーパーの買い物も持ってくれた。


「中崎さん、ありがとう。大好きです」と言うと「焼き鳥効果すごいね」と笑った。


 恋人じゃなくても、側にいて、大切にしてくれる。それが一番じゃないかな…と私はぼんやり思った。


 

 カウンターに座って、大好きなネギマを八本も頼んだ。焼き鳥をお腹いっぱい食べて、私は店を出た。


「幸せ、満足」と夜空を眺める。


「十子ちゃん、給湯室に誰かいたの?」


「あ、そうです。いじめられてたOLさんです」と言うと、中崎さんはゾッとした顔で「亡くなってる人?」と聞いた。


「はい。でもその人に色々相談してたんですよ? クマのパンツのこととか」と話すと、ちょっと戸惑ったような笑顔を中崎さんは浮かべた。


「それで…成仏したの?」


「できました。ずっと…言えなかった一言が気になってたみたいで…。そのお相手も…言えなかった気持ちもあって…。すれ違いみたいです」


「すれ違い?」


「きっとお互い、少しいいなぁって思ってたんだと思うんですけど、勇気がなくて、言えずじまいで十年数年…。お相手の方は自分の気持ちも騙してきたって言ってました」


 私は本田さんの少し寂しい前髪を思い出す。でも目に輝きがあったから、きっと再スタートを切るはずだと思った。


「言えなかったんだ」と悲しい声が聞こえる。


「…ほんの…少しの勇気なんだと思います。きっとちょっとした…。だから、私は中崎さんに言おうと思って」


 手で胸のところでハートを作る。


「大好きです」


「十子ちゃん…」


 手で作ったハートにキスをされる。温かい火が灯ったような気がした。


「僕も…」


 そうやって繰り返し、お互いの気持ちを伝えて、きっといい関係になれると信じた。



 夜にトラちゃんがベッドに潜り込んでくる。私はそれが暖かくて嬉しくて、くすっと笑ってしまう。


「あー、トラ?」と眠そうな声で中崎さんが言う。


「はい」


「どうして僕の方には来ないの?」


「私がチュールをあげるから、私に懐いてるんです」と言って、中崎さんには見えないトラちゃんを撫でる。


「…じゃあ、十子ちゃんが来て。今日、焼き鳥食べさせたでしょ」と言うから、可笑しくて笑ってしまう。


 でも私はそっと頭を中崎さんの肩につけた。


「おやすみなさい」と私から言って目を閉じる。


「おやすみ」


 中崎さんは疲れているのか、すぐに寝た。私はトラちゃんの寝息を聞きながら眠った。



 久しぶりに夢の中で人間の姿のトラちゃんに会った。どこかの田舎の駅の椅子に座っている。


「トーコ…。トーマのこと見えた?」


「トーマのこと?」


「そう小さいトーマ」


「あ…。うん」


「トーマ…。置いていかれるの好きじゃないからね」


「え? だから迎えに来てくるの? いつもいつも」


「うん。置いていかれるのは…きっともう嫌なんだよ」


 はっきり見える。朝日が登っても昼間でも夕方にも開かない扉を見ている幼い中崎さんの姿が。


「出向…辞めた方がいい?」


「うーん。でもトーコには行った方がいいと思う。でもさ、決めるのはトーコだから」


「…うん。ねぇ。トラちゃん、トーマのお母さん分かる? 産んだ人のこと」


「あー、分かるよ。可愛い人でね。すごく二人のこと可愛がってた…。でも人間って、成長遅いからね。育てるのは大変だったと思う。一人だったし…」


「…今、生きてる?」


「生きてるよ」


「そっか。二人のこと…」


「知ってる。ニュースで見たんだろうね。でも…行かなかった」


「…どうして?」


「怖かったみたい。後…疲れたんじゃない?」


「疲れたの?」


「うん。その時、ちょっと魔が差したんだろうね。名乗りでなかったら、このまま自由になれるって」


「…ひどい」


「ひどいよね。でも…お母さんだけでは子供できないからね。トーコはいつかお母さんになると思うけど…。いい人と結婚して」


 トラちゃんはじっと私を見て言った。


「じゃあ、さよなら。僕、もう会えなくなるからね」


「え? どうして?」


「行かなきゃ…」


 電車が駅に入ってくる。


「今?」


「うん。いつかブルーグレーの猫、飼って。それ、僕だから」


「トラちゃん?」


 トラちゃんは手で顔を擦って、猫の姿になると扉が開いた電車の中に入って行った。


 私は淋しくて、トラちゃんがいなくなったことと、そして幼い中崎さんのことを思うと涙が溢れ出す。声を出して泣いて、その声で目が覚めた。まだ明け方前だった。ベッドのトラちゃんはいなくなっていた。そっと抜けようとしたら、中崎さんが起きていた。


「十子ちゃん、どうして泣いてるの?」


「…トラちゃん…いなく…なった。もう会えないって」


「会えない?」


 そして大きくなった中崎さんを見て、私は涙を零す。あの子が生きていて、奇跡だと思った。成長して、愛される人になっていることに感謝した。中崎さんがティッシュで涙を抑えてくれる。


「抱きしめていい?」と聞いて、抱きしめてくれる。


 この温もりが今、存在できてよかった。泣いている私をただ受け止めてくれていた。

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