第85話

学生スタイルデート


 金曜日になっても私の辞令は出なかったし、部長は本社に朝から行って、直帰ということになっていた。村岡さんもまだ復帰していないし、私の机の犯人はなんとなく分かっているようだった。村岡さんといつも連んでいる女子社員がずっと休み続けていた。


 出向先の不動産屋から電話があったが「まだ決まっていない」と言って、待ってもらうことになった。


 昼は社員食堂で中崎さんと二人で作った焼き鳥弁当を食べることにする。全く中身が同じ内容なので、吉永さんに相当冷やかされた。


「俺の分は?」と吉永さんが言うので、いつもお世話になっているから焼き鳥を分けてあげた。


「十子ちゃん、あげなくていいよ」と中崎さんが言う。


「なんで中崎が言うんだよ」と言って、焼き鳥を食べた。


「十子、明日から中崎と旅行?」と梶先輩はパスタを食べながら聞く。


「あ、今日の夜からです」


「ちょっと遠いから、今日中に夜行バスで行くことにして…」と中崎さんが言うから「どこ行くの?」と吉永さんが聞いた。


「内緒です。お土産買うまで楽しみにしててください。それより来週のタコパはいつですか?」と私は話を変えた。


 そしてタコパは水曜日に決まった。


「じゃあ、今日は梶先輩と二人で飲みに行きますか?」とさらっと吉永さんが誘った。


 梶先輩からOKをもらって、嬉しそうだったし、私も師匠がうまく行くと嬉しくなる。私は来週が楽しみになった。仕事を定時で終わらせて、私は中崎さんと夜行バスで向かうことにした。だから深夜にバス停に行くんだけど、その前に何か美味しいものを食べようということになったので、楽しみが増えた。


 仕事は恐ろしいほど静かに進んで予定通り定時に上れた。帰りに覗いてみた給湯室は誰もいない。

 先に中崎さんの部屋に戻って軽く荷造りをする。中崎さんの部屋にはトラちゃんももういない。だから私はペットフードを水の容器を片付けた。何もかもが終わっていく気配がする。


「中崎さん…」と呟く。


 少しだけ遅れて来ると言っていたから、部屋の掃除機をかけた。


 来週も私はここにいるんだろうか、と何故か不意に疑問が浮かんだけれど、とりあえず片付けることにした。


 あまりにも馴染んでしまったこの部屋だけど、私は近々ここを出なければいけない。ベランダに出て、暮れていく街を眺める。空の低い位置に月が登っていた。


 道の向こうから早足で歩いてくる中崎さんが見える。


「あ、もうすぐ帰ってくる」と私はベランダから手を振ってみた。


 中崎さんがすぐに気づいてくれて、手を振りかえしてくれた。格好いい長い手を見て、私は微笑んだ。


(生まれて初めて恋をした。


 それがあなたで良かった。


 初めて手を繋いだのも、お泊まりも、キスも、全てありがとう)


 マンションに入っていくのを確認して、私は玄関を出る。エレベーターホールまで迎えに行く。


 一階からエレベーターが上がってくる。三階、四階、あと一つ…とカウントダウンする。


「十子ちゃん」と扉が開いた瞬間、微笑んでくれた。


「お帰りなさい」


 お気に入りの新婚ごっこを私は始めた。綺麗に片付けられた部屋を見て、中崎さんはお礼を言ってくれる。


「シャワーお借りしますね。洗濯もしてから行きましょう」


「十子ちゃん…」と手首を掴まれた。


「大丈夫ですよ」


「え?」


 掴まれた手から不安が伝わる。だから私は笑顔で、中崎さんに行った。


「少し辛い現実にあたるかも知れないですけど、私がついてます。これから…出向で遠くなるかもしれないけど…。それでも私は中崎さんのことを思ってますから」


 そう言って、笑顔を作る。


 中崎さんの目が細くなって、私はきつく抱きしめられた。目を閉じて、愛されていることを実感する。そしてこの胸にある黒い空洞を埋めてあげられたらいいな、と私は思った。


「ずっとこうしてたい…。安心する」


「中崎さん、バスの時間がありますから」


 そう言って、私は体を離した。この空洞が埋められたら、私のこと好きでいてくれるのだろうか、と思った。今、この空洞の形と私がパズルピースのようにぴったり合ってしまっている。そこが埋まったら、私の居場所はあるのだろうか。


 例えなかったとしても、私は中崎さんが好きで、きっと離れてもずっと好きなままだ。


「晩御飯、何食べよっかな」と私はわくわくした声を出す。


 心臓に針が刺さっているような気がした。チクチク刺すけれど、私は笑顔で洗面台に向かう。シャワーをしながらちょっぴり泣いて、笑顔を作る。きっと大丈夫。私は何度も自分に言い聞かせた。


 真実を知るということは残酷なこともある。


 その後のことまで考えて、私は受け止められるのだろうか、と思いながら洗面台を出る。いつものようにドライヤーを持って、待っている中崎さんがいた。



 帽子を被って、ほぼすっぴんで荷物を持って、私たちはバスターミナル駅まで向かう。


「お腹空きましたー」と言うと、中崎さんは何食べるか聞いてくれる。


 結構時間が遅いので、開いている店が限られてくる。ラーメン屋さんかハンバーガー屋さんみたいなファーストフード店になる。


「中崎さん、私、ハンバーガー屋さんに行きたいです」


「え? いいの?」


 大手チェーン店の24時間営業のお店がある。


「はい、ここがいいです。学生の頃、デートで行ってみたいなーって思ってたんで。その夢を叶えてもいいですか?」と図々しくお願いする。


「…いいよ」と笑ってくれた。


 その笑いは何度も経験したことのあるプロの笑みだ、と私は思った。

 

「手を繋いでもいいですか?」と聞くと、頷くより早く手を取ってくれる。


 大きい手は安心する。今日は長距離バスを乗るので、ラフな格好をしている。私はフードのついたトレーナーの下には切替のないネル素材のワンピースを着て、中崎さんもラフな格好だった。


「十子ちゃん、学生みたいに見える」と中崎さんに言われたから、ちょうどいいと思った。


 学生の気分でハンバーガーデートができる。週末だからか、お店は混んでいた。少し並んで注文をする。シンプルにチーズバーガーにした。席は窓側のカウンターしか空いてない。並んでそこに座る。大きな荷物は足元に置いた。


 並んで座ってハンバーガーにかぶりつくと、窓に自分の顔が薄く写る。


「高校生の頃はどこでデートしましたか?」


「うーん。映画とか…。ハンバーガーも来たけど…。遊園地とか…」


 やっぱり来てる、とこっそり微笑んだ。


「十子ちゃん」と言われて横向くとポテトを差し出された。


「私もありますよ」と言うと「あーん」と言われたからうっかり食べてしまう。


 それを飲み込んでから、


(は。デートってこういうことするんだ!)と感動した。


 私も慌ててポテトを取り出して、中崎さんに「あーん」と言った。


 照れながら食べてくれるのが嬉しい。


 私は周りを見てみる。すると二人肩を寄せて携帯で動画を見ている恋人もいた。イヤホンを片方ずつはめている。


(あぁ、いうのもしたい…。イヤホンないけど)と残念な気持ちになった。


「十子ちゃん、写真撮っていい?」


「えー。すっぴんですよ?」と私は慌てたけど「可愛いから」と言われた。


 本当はちょっと恥ずかしいけど、中崎さんとポテトをお互いに食べさせながら一緒に自撮りする。


「学生みたい」と可笑しくなる。


「学生デートごっこだから」と中崎さんにも私の思惑が伝わっていたようだった。

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