第65話

不良娘の決心


 無言で頑張ったおかげで、定時で終わった。途中、部長から呼び出されて、来週、内示が出て、出向はひと月後ということになった。


「はい…。分かりました」


 キスを一ヶ月以内にすると言う明確な目標ができて、私は鼻息荒く、返事をしたのだが、部長が悲しそうな顔で「ごめん」と謝る。


「いえ…」


「二年くらいでこっちに戻る話だから」


「そう…ですか?」


(もしかしたら永住するかもしれないじゃん)と思いながら、私は出向先が海の近くの会社と聞いて、わくわくし始める。


 魚がよく取れる工場での勤務だ。私は経理の人が産休に入るので、そこへ行くことになる。海を見ながら仕事ができるなんて、なんて素敵なんだろうと思っている。魚肉加工品を作っているらしいので、新製品なんかの試食もできそうだ、と私は楽しみを見つける。そう、見つけられるのだ、と私は思って、もう一度頷いた。


「産休の…ってことは最長三年。もし第二子が産まれたら…最長6年。第三子が…」と私が言うと、部長がちょっと顔色を悪くする。


「いや、そんなに長くは…」


「いいアパート探してくださいね。長く住むことになるかもしれないし…海の見えるところとか…」と私はそう言った。


「じゃあ…部屋探しに有給使っていいから…」


「本当ですか?」と私は言ってにっこり笑う。


「うん。うん。使ってないみたいだし、遠慮せずに使って」


「はーい」と言って、私は早速休みの日をいつにするか考える。


 早速、住宅情報を検索しなければ、と思いながら、一日中仕事をしていた。そして定時になり、会社を出ようとしたら、中崎さんからメッセージが届いた。


「家に来て欲しい」


 そんなダイレクトなメッセージをもらって、私は鼓動が早くなった。


「今日は一旦、家に帰ります」と私は返信した。


 着替えもないし…と思ったが、私は中崎さんのベランダに干したままのパンツを思い出した。クマではないけれど。それでも今日は家に帰って、出向の話もちゃんと両親にしたいし、中崎さんのところから通うにしたって、その話もしなければいけない。


「ちょっと待って」とすぐに返信が来る。


 会社の下で待っていると、走って中崎さんが来た。


「あ、お疲れ様です」


「十子ちゃん、今日は仕事が遅くなりそうだから…」


「はい?」


「本当は家で待ってて欲しいけど…」


「家で?」と私は何だか新婚妄想が捗りそうで、慌てて首を横に振った。


「だめ?」


「流石に今日は…あの家に…。ちょっと家族と話したいこともあって」


「出向のこと?」


「あ、そうです。まだ何も話してなくて…」


 よく考えれば…お兄ちゃんしか知らないかもしれない。


「ごめん。わがまま言って」


 中崎さんに謝られている意味も分からないけれど、私も一緒にいたいから、別にわがままではないと思う。


「あの…私も一緒にいたいです。でも今日は…帰って話をして…。明日から一緒にいさせてもらいます」


 私がそう言うと、中崎さんが一瞬固まって、そして微笑んで、小指を出した。


「じゃあ、約束。指切りしよ」


「…はい」


 指切りなんてしたのいつぶりだろう、と思いながら私は中崎さんの小指に小指を巻く。


「明日、朝、迎えに行くから…」


「え?」


「だって着替えとか荷物多いでしょ?」


「…あ。でも…それくらい」


「じゃあ、明日ね」と言って、小指を軽く振って放した。


「はい」


 走って会社に戻っていく姿を見送って、私は駅まで歩いたけれど、よく考えたら、いろんな人に見られていた気がする。そして私が駅に着くと、今度は吉永さんからメッセージを受けた。


「上から見てた。いい感じに進んでいる。次の指令は…」と中崎さんの目の前でアイドルの画像を見たりすること、と書かれていた。


「なるほど…」と呟きながら、私はアイドルが同じ顔に見えてしまう。


 アイドル検索は諦めて、住宅検索をする。

 会社に近くて、海が見える部屋を探すことにする。海を見て、過ごす休日とか…と気持ちが穏やかになれそうだ。実際住んでるとそう毎日見るわけではない、という意見もありそうだが、それは気にしないことにした。


 家に着いて、私はお母さんに「不良娘お帰りなさい」と言われた。


 そして開口一発目で出向の話をした。


「なんですって? 会社辞める? 別にコンビニのバイトでもいいのよ?」となぜか少し前に考えていたことを言われてしまう。


 そして出向まで中崎さんの家から通勤すると言うと、ぽろぽろと涙を零された。


「そんな…突然…」


「ごめんなさい」と私は項垂れた。


 お母さんを悲しませるつもりじゃないのに、そうなってしまったことは申し訳なく思う。


「…そうよね。あなたも…もう大人だからね」と寂しそうに言われてしまった。


「ごめんね」


「ご飯、食べましょう」と言葉少なくなってしまったお母さんがかわいそうになる。


 帰ったら当たり前のようにご飯を出してくれるお母さんに、なんて言ったらいいのか分からなくなる。


「…たまには中崎さんも一緒に帰ってきてね」


「うん」


 お父さんはあまり家にいないから、お母さんは一人きりになってしまう。そう思うと、胸が縮こまってしまう。


「お母さんもたまには夜の外出とかしようかしらね」とすぐに明るい声で話しかけてくる。


「…夜の外出?」


「社交ダンスでも習おうかしら? お父さん以外の人と踊るのもいいわね」


 ふと、お父さんでも嫉妬するのだろうか、と首を傾ける。


「お父さん、怒るかな?」と私が言うと「さあね。でも帰って来ないから仕方ないじゃない?」とお母さんはケロッと言った。


 お母さんがもし他の人を好きになったりしたら…と考えると複雑だ。でもお母さんが私の人生に口を出さないように、私も同じだ。二人きりのご飯を食べて、私はお風呂に入って、自分の部屋に戻った。こんなに居心地のいい場所だったなんて、と思いながら、着替えを鞄に詰めていく。明日から中崎さんの家で暮らすのか、と思うと不思議な気持ちになった。荷物を詰めていると、少し寂しくなって、下に降りた。お母さんはもう寝たようで静かだった。



 翌朝、本当に中崎さんが迎えに来た。


「ご飯食べていらっしゃい」とお母さんが言うので、中崎さんは家の中に入ってきた。


 私は食べ終わって出かける準備をしなきゃいけなくて、慌てて着替えたり化粧をしたりしていたから、お母さんがご飯を用意してくれる。バタバタと上ヘ、下へ移動していると、楽しそうに話をしている二人が見える。

 ようやく用意ができて、台所に向かうと、ご飯の後に二人でお茶をしていた。


「あ、お待たせしました」と頭を下げる。


「十子…。中崎さんと仲良くね」とお母さんは言った。


「すみません。十子ちゃん…お借りします」


「いいのよ。返さないでね」と笑いながら送り出してくれた。


「じゃあ、行ってきます」


「時々は二人で帰ってきてね」と手を振られた。


 中崎さんは私の荷物鞄を持ってくれる。


「あ、ごめんなさい」


「いいよ。僕のわがままだから。駅に着いたら、先に会社行って。荷物、家に運んでから、会社向かうから」


「でも…」


「駅に自転車置いてるから、さっと荷物持って行けるから」と言われた。


「はい」


「お母さんに、十子ちゃんのこと、よろしくって言われて…」


「気にしないでくださいね」と私は自分が決めたことだから、と胸を張った。


 中崎さんが鞄を持ち替えて、手を取る。駅まで手を繋いで歩いた。お互い好き同士…なのかな、と少し思ったけど、でも恋人にはなれないんだろうな、と思った。


「中崎さん…。明日から朝ごはん頑張って作りますね」


「十子ちゃん、いいよ」


「朝だけです。夜は…作れるとしたら…カレーぐらい…かも。でも一人暮らしも見据えて、ちょっと何か作れるようになるといいなぁ」


「コンビニで十分だよ。十子ちゃんと一緒に食べれるなら」


(そんなに価値あるのかな?)と首を傾けたが、私はこのひと月で絶対にキスまで漕ぎつけようと熱い闘志を燃やしていた。


 相変わらずの満員電車もしっかりと中崎さんの中に収まって、こっそりに匂いを嗅ぐ。美味しい匂いではないけれど、安心させられる匂いだった。見上げると、優しく微笑んでくれる。きっとこの混雑が不憫に思って、お家に呼んでくれたのだろう。


「ありがとうございます」と言いながら、中崎さんの胸に頭を擦り付ける。


 すると中崎さんは固まって、私から目を逸らした。私はじっと中崎さんの胸に頭をつけて、そういえば、アイドル検索をしなければならなかったと思ったけれど、携帯を取り出す隙間もないなぁ…とそのまま甘えて、電車に揺られた。

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