第64話

嫉妬


 二人で出勤していると、会社の前で吉永さんに「おーい」と朝から絡まれた。


「何? 二人とももしかして?」と言うので、私は慌てて、吉永さんの袖を引っ張って、急いで会社の扉をくぐる。


「あの、梶先輩情報が欲しかったら…あとで」


「え? 何?」


「だから、後で教えますから」と私は耳打ちしようとしていると、中崎さんが急いで追いかけてきた。


「十子ちゃん…。髪跳ねてる」と突然、後ろの髪を押さえられた。


「中崎…」と吉永さんは意味ありげに呟いて、そして三人でエレベーターに乗った。


「意外と嫉妬深いんだな」と吉永さんが呟く。


「え?」と私が驚いて聞いたけれど、吉永さんはにっこり笑って「じゃあ、小森ちゃん、あとでね」と言って、先に降りていく。


「十子ちゃん…」とまた中崎さんに呼ばれた。


「はい?」


「着替え、取りに帰るなら付き合うから」と言う。


 周りの人の目が一斉にこっちを見た。


「え? あ…」


 先に降りた吉永さんが、後ろ歩きで戻ってきて「中崎…小森ちゃんの立場、考えな。うん。なんか…俺も悪いけど」と言った。


「あ、タコパしましょうね」と私はなぜか二人に言ってみた。


 二人とも黙って、去って行った。


(え? タコパはなし?)と私は置いていかれ、ちょっと悲しくなった。


 給湯室に行くと、角の女の子は相変わらず俯いている。


「はぁ」と大きなため息が聞こえると、村岡さんともう一人が入ってきた。


「勘違いしてる人って痛いよねぇ」


「本当ー。二人に言い寄られてるって思ってるのかしら」と私を見て言う。


 私が先にお湯を入れようと思ったけれど、圧がすごくて、譲ることにした。ご自慢のウエッジウッドのマグカップを置いて、お湯のボタンを押した瞬間…、お湯が暴走して、村岡さんにかかった。


「あつっ」と言って、慌てて顔や手にお湯が飛んだらしい。


「水で急いで冷やして…」と私が言うと、怒ったように出ていった。


 お手洗いに向かったのだろう。ウエッジウッドは置き去りのままだった。私は振り返って俯いている女の子に言った。


「やめなよ」


 悪いことをすると、黒ずんでいく。成仏しない、できないは私には関係ないけど、黒くなるのは本当に良くない。


 すると映像が見えた。彼女が虐められていた映像が。だから私の味方をしたのだ、と。


「…よくないよ。私のためにそんなこと…。私、大丈夫だから」と彼女に声をかけた。


 俯いていた彼女は首を横に振る。


 彼女を虐めていたのは村岡さんじゃないけれど、きっと許せないのだろう。だからずっと成仏できない。


「私も友達…いないけどさ。…でもこのままじゃ…だめだと思うんだ。私、もうここに来なくなるの。違うところに移動だから…。だからそれまで…短い時間だけどお菓子とお茶を用意しておくね。そんなことで、気持ちは…晴れないだろうけど」と言って、私は自分の席に戻った。


 そして机の中を探す。何かお菓子があるはずだ、と思ったが今日もなかった。もらったらすぐに食べてしまうのは本当に悪い癖だと思っていると、中崎さんが来た。


「何探してるの?」


「お菓子ください」と必死で言うから、笑われてしまった。


「じゃあ、お昼買ってくるけど、何がいい?」


「あ、お昼だったら、自分で買います」とテンションを下げて言ってしまった。


 一時間後に中崎さんが手にマドレーヌを持ってきてくれた。


(どこから調達したのだろう?)と思ったけれど、ありがたく受け取り、私は給湯室の端っこにおいて、紙コップでお茶を淹れた。


「あのね…。食べてね。私が買ってきたのじゃないけど。明日からは私がちゃんと用意するから」と言って、私は出て行く。


 放っておこうかと思ったけれど、人に危害を加えるようになったら、もう戻れなくなる。自ら命を絶ったのか、どうして亡くなったのかは分からないけれど、彼女は給湯室に固執していて動けなさそうだった。


 ふと、居酒屋の変態のことも浮かんだけれど、あれは放置しておくことにした。しばらくして、給湯室からお菓子だけ下げてきた。ちょっと食べてみると、味が少し薄くなっている気がした。


「小森ちゃーん」とランチの時間の少し前に私は吉永さんに呼び出された。


「ランチ奢るから、教えて」と言われて、外に行くことになった。


 そして私は吉永さんと二人で会社の外に出る。


「梶先輩のことって?」と早速、聞かれた。


 まだ店にもついていないのに、と思ったが、本当に知りたそうだったから、教えてあげることにした。今日は天ぷらそばを奢ってくれると言ってくれた。


「梶先輩のこと、よろしくお願いしますね。吉永さんだから頼むんですからね。…それで今はそっとそばに寄り添ってあげてください」


「え? 何かあったの?」


「はい。亡くなった彼が婚約指輪を注文していて、それが見つかったそうなんです」


「え?」


「だから…今は梶先輩は辛いし、悲しいし…大変な気持ちを抱えていると思うんで、そっと寄り添ってあげてください。でもいつか吉永さんの気持ちが届く日がくるはずです」と私は言った。


「…そっか。婚約指輪」


「はい」


「渡せずに亡くなったってこと?」


「そうですね」


「亡くなった人からのプレゼントか…。教えてくれてありがとう。そのプレゼントは…大切なものだね」と吉永さんは悲しそうな顔をした。


「はい。でも…きっと大丈夫だと思います。今から元気に…。きっと彼氏さんもそう願ってると思うので」


「? そうかな?」


 私は流石に本人が言ってましたとは言えなかった。


「そうですよ。きっと梶先輩の幸せを願ってます」と無理矢理言ってみた。


「…だといいな」


 吉永さんならきっといつかは梶先輩の気持ちを動かせるはず、と私は思った。


「あのさ…小森ちゃんは中崎のことどうなの?」


「え? 中崎さんですか?」


 蕎麦屋さんに到着した。早く出てきたので、すぐに中に通される。もう注文は決まっていたので、すぐに天ぷらそばを注文した。吉永さんは鴨南蛮だった。


「あいつ…嫉妬するなら、ちゃんと付き合ったらいいのに」


「え? 嫉妬?」


「嫉妬だよ。俺がちょっと小森ちゃんと喋ってたら…一々…面倒臭い」


 吉永さんはそう言って、首をすくめた。


「嫉妬…されてる」と私はちょっと顔がにやけてしまったかもしれない。


「えー? 小森ちゃんもあいつのこと、本当に本気で好きなの?」


「はい」と素直に頷いた。


「よし、ここは恋愛の神様、吉永に任せなさい。二人をくっつけてあげよう」


「えー?」と思わず吉永さんが偉大な魔法使いに見えた。


「あいつは嫉妬深いから、ちょっと俺たちが仲良くしてたら、焦ってくるはず」


「え? そうですか」


 吉永さん曰く、男は狩猟本能があるから、追いかけられるより、追いかけたいのだという。他人に取られると思ったら、突然、欲しくないものも輝いて見える、と説明してくれた。私はふんふんと頷いて話を聞いた。


「あ…でも…中崎さんは結婚する気はないって…言ってました」


「結婚する気ねぇ…。まぁ、でも今朝の様子を見ても、小森ちゃんに気はありそうだけどな」


「そうですかねぇ」と私は首を傾げた。


 私に優しいのはきっと誰にも優しいからだ、と思っている。でも吉永さんが言うように嫉妬はちょっとされてみたい、と不謹慎にも思った。ちょうどお蕎麦が運ばれてきたので、私は元気よく頂くことにした。


 お昼を食べて、私はコンビニに寄ろうと思った。


「お菓子買うので…」


「小森ちゃん、おやつ買うの?」


「はい…」


「俺もなんか買おうかな」と言うので、二人でコンビニに入る。


 トマトジュースもついでに買う。


「小森ちゃんは中崎と付き合いたくないの?」


「えー? 付き合いたいっていうか…。あ、キスってどう言う時にしますか?」


「は?」


「出向までにどうしてもキスしたいんです」と私はやる気を出して言ってみた。


「どうしても…キス」と吉永さんが顔を赤くした時「十子ちゃん?」と中崎さんが吉永さんの後ろに立っていた。


「うわ」と叫んだのは吉永さんだった。


(あ、聞かれてしまった)と私は言葉を無くす。


「キスしたいの?」


 私は笑って誤魔化すわけにもいかず…「えっと体験したくて」と自爆した。


「小森ちゃん、それ買ってあげるから…先帰るわ」と吉永さんは私の手からトマトジュースを取った。


 それを中崎さんが取る。


「僕が買うから」


「そっか」と言って、そのままコンビニから出て行った。


「私もそろそろ戻らないと…」とコンビニのバームクーヘンを手にする。


 偉大な魔法使いは逃げてしまった…と私はしょんぼりして、トマトジュースも自分で払うと言って取ろうとすると、トマトジュースを持った手を高くあげる。


「あ…」


「そんなにキスがしたいの?」と綺麗な顔で言われてしまう。


「…ですね」


「分かった」


(コンビニで?)と思わず目を見開いてしまうが、結局、トマトジュースをレジに持っていくだけで、何も起こらなかった。


 私はバームクーヘンだけを手に戻る。そして給湯室に言って「おやつ食べてね」と言って、お茶と一緒に置いた。


 午後の仕事が忙しくて、必死に経費を打ち込んでいると「給湯室のバームクーヘンだれ?」と言われた。私は慌てて、取りに行く。俯いた女の子がちょっとチラッと私を見た。


「また明日、何か買ってくるね」


 席に戻ると、村岡さんが「手が痛くて仕事できないー」と午前中いなかったが、手を包帯でぐるぐる巻きにして姿を現した。どうやら保健室で休憩していたらしい。


(仕事できないなら、帰ったらいいのに…)と思ったが、口に出さずに仕事した。


 あまりにも周りへのアピールがうるさかったのか、村岡さんは帰されることになった。


「ゆっくり休んでね」とみんなに言われて、出て行った。


「大丈夫?」と声をかけてもらって、心なしかご機嫌な様子で出ていった。


 男性社員も心配そうに見送っていた。


 そして村岡さんが出ていった後


「ないわー」と言う声が聞こえた。


「仕事しないんなら、最初から帰れよ」


「マジで、それ」


 少しの笑い声も混じっていた。


 私は何だか、ゾッとして、黙って仕事に打ち込んだ。

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