第60話

碧い宝石


 さらに中崎さんは家に泊まった。ちょっと早く出て、スーツに着替えるから、と言うので、私も早めに家を出る。お兄ちゃんは昨日中に帰って行った。


「十子ちゃんと出社できるなんて」


「えー。そんなにいいものじゃないですよ」と私はもうあれこれ気を使うことをやめた。


「十子ちゃん、本気なの? 出向の話」


「…はい。そろそろ一人暮らししたいなぁって思ってたし、会社から費用でもたくさん出してもらえたらラッキーですよね」と私は笑った。


「僕のせい?」と私を見る中崎さんはとても切なそうだった。


 イケメンの美しい顔を少し歪ませてしまったけれど、それでもイケメンだな、と私は思いながら…「違いますよ」と言った。


「私のためです」と前を向いた。


 私も誰かのせいにしていた。どうしてみんなが仲良くしてくれないんだろう。どうしてうまくいかないんだろうと他人に期待するばかりだった、と思う。今からは自分の人生を自分で作っていかなくてはいけない。


「お兄ちゃんに何か言われたかもしれませんけど、気にしないでくださいね。全部忘れてください」


「お兄さんは…」


「あ、そう言えばお兄ちゃんを見て、何か思い出しました?」


「…記憶の断片が…昨日からちょっと…思い出せるような…」


「妹って…言ってた気がしますけど…」


「うん。でもどうしてそこにいたのか…。どうして二人も子供がいなくなったのに両親は何も言ってこなかったのか…」と中崎さんが言う。


 真実をクリアにして、中崎さんが傷つかないのだろうか、と私は思った。知らない方がいいことなんて、世の中に山ほどある。


「本当に知りたいですか?」


「覚悟してる。碌でもない真実だとしても…。僕はずっと失った時間が消えないから」


「分かりました。じゃあ、一緒に行きましょう」


 あの時間、あの場所へ。時間旅行だ。


 通勤ラッシュ、長い通勤時間。混雑する電車の中で、中崎さんは一生懸命庇ってくれるけれど、人が多くて、もういっそ中崎さんの腕の中にすっぽり収まった方が良さそうだった。私はラッキーラッシュだとして中崎さんの胸に体をつけた。


「十子ちゃん…。うちに泊まる?」


「え?」


「こんなの、毎日、大変だから」


(大変だけど…一日泊まって、どうなるというのだろう)と私は中崎さんを見上げた。


「…はい」と言ったのは鞄の中にクマのパンツが入っているからじゃない。


 もうすぐお別れの時間が来るのを分かっているからだ。なるべく長い時間一緒にいたい、と思った。


 私は堂々と一緒に出社した。周りの女性たちの嫉妬深い目も全く気にしなかった。ランチの約束もして、席に着く。就業時間が始まってすぐに部長に呼ばれた。会議室に二人だけで入る。


「出向のことなんだけどね…」


「はい。行きます」


「え?」


「行きます。出向先どこでした?」


「いや…あの。僕は撤回したくて…それで」


「撤回…できなかったんでしょう?」と私は部長に言う。


「いや…。他の人を行かせようと思ってて…。事務方の出向は必ず必要みたいで」


「独身で身軽な私が行けばいいんじゃないですか?」


「他にも独身がたくさんいるから…とは言ったんだけど」と部長はため息を吐いた。


 他の独身女性はみんな偉い人のコネがあるから断られたのだろう。


「なるべく短く…終わるように掛けあってるんだ」


「いいです。それより、ちょっと頑張って、住宅手当つけてくださいね」


「本当にいいのか? 結婚だって…」


「結婚はしません」と私は部長にきつく言い返してしまった。


「あ、いや、ごめん。悪かった。お昼奢ろうか?」


 今までだったら、すぐに首を縦に振っていた。


「先約がありますので」と言って、私は微笑んで断った。



 ランチの時間になって、私は社食に向かおうとしたら、梶先輩に呼び止められた。


「十子…ありがとう」


「あ、いえいえ。あの…指輪の領収書とか引換券見つかりましたか?」


「うん。それで」とポケットから小さな箱を取り出す。


 小さな紺色の箱を開けると、綺麗なブルーサファイアの指輪があった。ブルーサファイアと横に小さなダイアが寄り添っている。梶先輩の細くて白い指に似合うデザインだ。


「あ…。これ…これを渡したかったんですね」と私は誰に言うとでもなく呟いた。


「…そうみたい」と大切そうに指輪を撫でる。


「素敵な指輪ですね」


「知り合った時のバルセロナの海みたいに青くて…光ってて…。彼がこの石にした理由が分かる気がする」


 不意に目の前に青く輝く海と広がる空が見えた。潮風の匂いと、強い日差しに目を細める。

 そして私は思わず涙が込み上げてくる。真田さんの想いー。

 明るい空の下で、鮮やかな笑顔で振り返る梶先輩はバルセロナの海を背景に光り輝いていた。青い燦めきと水面の光の宝石に負けない美しさ。


『本当に…綺麗で、一目で心が奪われた』


 偶然、異国の街で再会する度に気持ちが高まってくる。


『心から愛してる』


 写真を見て、素敵と言って微笑む梶先輩。


『ずっと一緒に…いてください』


 そう言って渡すはずだった指輪。


 真田さんの気持ちがダイレクトに込み上げてくる。


(さぞ悔しかっただろうな…。執着するのも分かる)


「結婚式…しましょう。二人で」と私は言った。


「結婚式?」と梶先輩は驚いたような顔をする。


「ケーキ買って…。白いドレス着て…。部屋で十分です」


「十子…来てくれる?」


「もちろんです」と私は笑った。


「お疲れ」と吉永さんが声をかけてくる。


 タイミングがいいのか悪いのか分からない。三人で社員食堂に上がる。中崎さんは社員食堂で待っているとメッセージが来ていた。


「タコパは延期ですかー」と吉永さんが聞いた。


「あ、タコパしたいですね」と私も言う。


「分かった。都合を決めて集まろう」と梶先輩は言う。


「ところで…十子、出向の話は無くなったんだっけ?」


「あ…。出向行くことになりました」


「えー?!」と二人の声が揃った。


「なんで、十子が?」


「小森ちゃんいいの?」


「はい。皆さんにはお世話になって、ちょっと寂しいですけど…。あの…残りの日数、たくさん遊んでくださいね」と言うと、二人は呆然としていた。


 二人とも黙って、返事してくれない。


「あの…遊んで…欲しい…んですけど?」


「あ、え? あぁ」と吉永さんは何だか気が抜けたような返事をしてくれた。


「十子」と梶先輩がいきなり私を抱きしめるから、梶先輩の豊満な胸が頬に当たる。


(あぁ、このまま溺れて死んでも…後悔はない)と思いつつ、吉永さんの視線が怖いので、何とか、空間を開ける。


「本当に私、何もできなくて、ごめん」と謝られた。


「先輩は何も…」と戯れていると、待ちくたびれた中崎さんが近づいてきた。


「何してるの?」と梶先輩に抱きしめられたままの私に聞く。


「えっと…」


「小森ちゃん…出向するって」と吉永さんが中崎さんに言う。


「…うん。決まったの?」


「お前…冷静だな」


 中崎さんはそのことに返事をしなかった。

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