第59話

兄の想い


 散々悩んだ挙句、私はジンジャーエールを入れて、テーブルに戻った。何故かお兄ちゃんが困ったような顔をしていた。


「ねぇ、お兄ちゃん。私が友達いないの…。きっと私のせいだから。気にしないで」


「え?」


「お母さんもそう言ってたし…」


「いや、でも」


「いいの。全部。全部、自分でちゃんと責任もたなきゃって…思ってるから。お兄ちゃんのせいじゃないし。だから…こんなことで一々、いいよ。もう」と私はお兄ちゃんには優しくなれない。


 せっかく心配してきてくれたの分かっているのに、それが腹立だしく思う自分に腹が立つ。ジンジャーエールを思い切りストローで吸う。本当はにっこり笑って「ありがとう」と言えたら、心配されることもないだろうな、と分かってる。


(だって急に帰ってくるのが悪い)


 お兄ちゃんはコーヒーも飲まずにじっと俯いている。


(心配なんて頼んでない)


 私から取ったソーセージすら手をつけてない。


(お兄ちゃんの横の牛が…鼻を擦り付けてる)


「お兄ちゃん…。牛」


「牛?」と顔を上げた。


「牛に好かれてるから…ソーセージは食べてもいいけど、ステーキはやめた方がいいよ」


 他人に言ったら、変な顔をされることも「そうか」と返事が来る。私だって、お兄ちゃんが苦しんでるなんて思いもしなかったから、これでおあいこだし、お互いの心配するより、自分のことを心配した方がいい。


「…酪農でバイトしてたんだ」


(その時の牛か…)と納得した。


「怒ってる?」と私を見てくる。


(牛? 私?)


「怒ってないよ。牛の方は…バイトしてる時に優しくしてあげたからじゃないかな? すごく懐いてる。私も怒ってないし。ちょっとびっくりしただけ。食べないならソーセージ返して」と言うと、すぐに食べた。


「十子…北海道に来るか?」


「え? どうして?」


「美味しいものいっぱいだから」


 黙っていたけど、私は今の考えを二人に言った。出向を受けようと思っていることを。


「十子…ちゃん。どうして」


「もう一回、リセットボタンもらったと思って」


 またふわゆる女子から始めてもいいかな、とこっそり思っていた。誰も知らない場所で一から始めるのも悪くない。そこで失敗してもまた、何度でもトライすればきっといつかは自分の居場所が見つかる、とそう希望を込めて。


 気まずい朝食が終わって、歩いていると、向こうから剛くんが歩いてきた。私は分からなかったけど、お兄ちゃんが気がついた。


「久しぶり、帰ってきた? 動物の病原菌とか研究してるんだっけ?」


「いや、もう戻るけど。…医者になったっけ」とお兄ちゃんが言う。


「まぁ…なったけど、大変だよ。夜勤とか…新米はこき使われて。…えっと」と私のことは忘れているのか、名前だけを忘れているのか、助けを求めてお兄ちゃんを見た。


「妹の十子だよ」


「あ、そうそう。十子ちゃん。綺麗になって」


「お久しぶりです」と私は頭を下げた。


 その瞬間、中崎さんが私の腰に手を回して引き寄せた。


「お付き合いさせて頂いてる中崎透馬です」と言った。


(お付き合い! 便利な言葉だ)と私は内心思いつつ、微笑んだ。


「え? あ、そう…なんだ」と明らかに驚いたような様子。


 イケメンは無敵だ。私のこと気味悪がっていたのに、と思うと、なんだか胸がスッとした。


「お兄ちゃんのお友達の剛君」と私は中崎さんにそう説明した。


「あ、いやー。昔の知り合いで…友達じゃなかったわ。ごめん」とお兄ちゃんが頭を下げた。


「え?」


「俺…妹のこと、別になんとも思ってないからさ」


(相変わらずお兄ちゃんの言葉足らず…)と私はため息をついた。


「だから、ずっと前に言われたこと…。ちゃんと答えてなかったなって思ってさ。もう向こう行くし…、会うことないと思う」とお兄ちゃんは言った。


 剛君は呆然としていた。


 そんな彼に私は唇に指を一本立てて、さも霊言あらたかな様子で言ってみた。


「看護婦さん、三人とお付き合いされてたら…大変ですね」と。


 ギョッとした顔で私を見る。しっかり生き霊がついている。私はにっこり生き霊に微笑んだ。中崎さんのシスターズとは質が違う、と思った。みんな執着が激しくて、真っ黒な目をしている。


「え? 何?」


「じゃあ…」と頭を下げて、去っていくことにした。


 私の惨めな日々のスタートだった人にお別れを告げた。


「こんな、じゃじゃ馬…よろしくお願いします」とお兄ちゃんは中崎さんに頭を下げた。


「じゃじゃ馬じゃないですよ」と慌てて否定してくれる優しい中崎さん。


「お兄ちゃん、大丈夫だから。私」と倒置法で言ってみる。


 そう、もう出向も受けようと決めているし、また新しくやり直すつもりだ。家に帰ると、お母さんが寂しそうにしていた。


「もう嫌。二人とも…その上、中崎さんまでいなくて…。朝ご飯食べてくるなんて。昼はもう…カレーにするから」とぷりぷりし始める。

 

 私はお母さんに捕まってカレー作りの手伝いをさせられたけど、中崎さんの方が手際が良かった。出向に向けての一人暮らしスキルを高めなければ…と私は思った。



 その夜、久しぶりに自分の部屋で眠った。

 

ぶくぶくぶく。真っ黒い夜の川。女の子の目が閉じられて、全体に川の藻のような植物のようなものに絡められていた。


「…中崎さんの妹…」


 中崎さんが川で溺れたところを助けられた。

 妹は助けられなかった。


 ぶくぶくぶく。静かで暗い。

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